霊山聴衆とおはしける 源信僧都のおしへには 報化二土をおしへてぞ 専雑の得失さだめたる
お釈迦様から霊鷲山で直接教えを受けた人の一人が源信僧都として生まれ変わった。その源信僧都の教えは雑修のものは、念仏はたくさんある善の一つぐらいにしか思ってないので、なぜ念仏をしなければならないのか分かっていない。だから、弥陀の浄土には生まれることはできず、懈慢界と言われる化土にしか生まれることはできない。念仏の意味が分かり、念仏一つを心に掛けてやるものが弥陀の浄土に生まれることができると教えられました。
懈慢界とは何か?
懈慢とは、少しでも楽して、それでいながら、自分は価値ある人間という所に立って、まわりの人を見下したいという心が離れきらず、この心がゆく世界を言います。私たちは馬鹿にされると腹が立ち、相手に対して何もしたくないと思います。しかし、仏教では、そんな自分のことを馬鹿にする相手にも、心をかけて温かいものを送り続けてゆきなさいと教えられます。それはまさに仏の道。でも、それをやる私の心はドロドロの泥凡夫。だから、普通なら、そんな相手を見下して、可哀想な奴だからと下に見てやることはできても、仏様のような心でできない自分はお粗末だなと思うことはありません。
だからこそ、仏のような心のない私たちが仏のように接してゆこうと思うからこそ、念仏をするのです。仏様ならどうされるか、そう考えて、仏様は尊いなあ。それに比べて自分は情けないなあ。でも、そんな自分こそ阿弥陀仏は見捨てず、助けようとされている。お粗末な自分が見えても、それを否定せずにお粗末だと受け入れることができる。そして、自分のお粗末さを受け入れることができるから、まわりの人を見下すこともしない。そんなものが浄土に生まれることができるのです。
それは、懈慢から離れたから、離れさせるものが念仏だから。念仏一つに心がけているから。仏様と同じ道を進み、浄土へと進むことができる。たとえ同じことをしていても、相手を見下す心でやっている懈慢のものは、懈慢にしかゆくことができないと源信僧都は教えられているのです。