浄土真宗で信心と言えば、阿弥陀仏の救いを信じることだと思っている人が多いが、本来、信心とは、現実と向き合う心。例えば、他人から非難された時に、その相手の言葉を通して、自分にとって見たくない自分が見える。その時、こんな自分も自分なんだと認めたくないから、相手を否定し、都合の悪い自分から逃げてしまう。
そうやって、現実から逃げれば、自分はいい人間だという所に立てる。自分のイメージしている自分を崩さずにいることができる。だから、このいい人という自分でいたいから、都合の悪い自分を見ようとしない。でも、そうやって、どんなにいい人という自分にすがっていたとしても、そのイメージは臨終で崩される。そして、都合の悪い自分が吹き上がり、見せつけられる。
その時、冷静に受け止められるだろうか?
日頃から現実が見せられた時に逃げているものが、いざ臨終になって、現実を見せられた時に逃げずに受け止められる筈がない。そこで見えた都合の悪い自分を否定し、どこどこまでも逃げようとする。しかし、どんなに逃げても、現実からは逃げられず、いつも見せつけられる。そうなると、自分で自分を否定し、激しく苦しむことになる。
だからこそ、生きている今、現実から逃げずに向き合わなくてはならない。しかし、どんなに向き合おうと思っても、いざ、現実が見せつけられると、受け止めることができず、逃げてしまう。だからこそ、現実と向き合う力、信心が必要なのである。
この信心を阿弥陀仏から頂き、現実と向き合い、都合の悪いことも受け止めてゆくからこそ、私たちは苦しみ迷いの娑婆世界から離れ、心穏やかな世界である浄土へと往くことができる。
娑婆から浄土へと進む為に必要なものが信心であり、信心があるからこそ、現実から逃げずに向き合い続けることができるのです。