本師曇鸞大師をば 梁の天子蕭王は おはせしかたにつねにむき 鸞菩薩とぞ礼しける
私の先生である曇鸞大師は、梁の天子蕭王が曇鸞大師のまします所に向かって、鸞菩薩と礼されるほどのお方であった。
仏法を説く人を尊いと思う心は大変素晴らしいものです。それは仏法者を敬うことによって、仏法を真剣に聞くことができるし、仏法を尊いと思う心から都合の悪い現実とも向き合ってゆけるからです。苦しみの深い人ほど、自分は正しいという所に立って物事を判断する。そして、自分の考えと合わないものを否定し、その人との縁を切ってゆく。その結果、自分を正してくれる人はいなくなり、罪悪を作りながら、罪悪の報いが来たら、すべて相手が悪いと思って、相手を否定してゆく。もちろん、善知識も都合の悪いことを言うのが仕事だから非難を受ける。この時に大切なことは相手のことを否定せずに、相手の仏縁を念じ続けてゆくこと。それをしようとすると苦しい。でも、それを乗り越えてゆかなければならない。これが善知識であり、この道を進んでゆくからこそ、尊いと思われて大事にされるのです。