魏の天子はたふとみて | 幸せのこころとかたち上田祥広のブログ

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人はどうしたら幸せになれるか。なぜ苦しまなければならないのか。お金や地位や名誉をどれだけ手に入れたかを問題にするよりも、自分がどうしたら幸せになれるかを問題にして生きてみませんか。

魏の天子はたふとみて 神鸞とこそ号せしか おはせしところのその名をば 鸞公巌とぞなづけたる

曇鸞大師のことを魏の天子は尊く仰ぎ、神鸞と名付けた。そして、曇鸞大師がおられる所を鸞公巌と名付けられた。

浄業さかりにすすめつつ 玄忠寺にぞおはしける 魏の興和四年に 遥山寺にこそうつりしか

曇鸞大師は玄忠寺で清らかになる行いを進められた。そして、魏の興和四年に遥山寺にうつられた。

清らかになるとは、どういうことか?私たちには、愛欲がある。自分のことを見てもらいたい。自分のことを大事にして欲しい。自分のことを無視しないで欲しい。こんな気持ちから、自分のことを傷つけた相手に対して、恨みを起こし、仲良く接してきた相手でも、もう付き合いたくないと切ってしまう。それほど自分のことしか考えないものが私たち。でも、そんな愛欲が邪魔して、大事な人でも傷つけられたら許せないと思う気持ちによって大事な人も失う。そんな自分の醜い心を反省して、相手のことを心から大事にしてゆきたいと思うことが清らかになるということ。清らかになると、大事なものを大事にできる。この人は大事だと思ったら、たとえどんなことがあったとしても、大事にし続けることができる。人間の世界というのは、悲しいもので、どんなに仲良く付き合っていたとしても、その人との間に何かあっただけで、関係を修復することができずに関係が切れてしまう。そんな切れたら終わりの世界の中で、それでも、続けてゆこうとするのが清らかな心。だからこそ、本当の安心が得られるのです。