夏の情緒というのは、何とも言えぬ感興を焚き付ける。
拭っても拭っても噴き出す汗は、腕を伝って肘をついた机に滴り堕ちる。
窓外に目を転ずれば、どこまでも青い空にソフトクリームのような入道雲が沸き立っている。
ああ、夏だ!
毎年蒸し暑い日本の夏が来れば、ブログで必ず引用するのが次の青春の定義。
誰の言葉だったかは失念。
「青春とは、汗と涙と匿名性である」
まだ何者にも成り得ていない、何者ともつかぬ者、そういう匿名性を身に帯びながらも、
汗を流し、涙を流し、理想と現実の間で引き裂かれそうになりながらも、愚直に夢を追い、野に川に、山に海に、どこまでも駆けてゆく。
息せき切って、立ち止まり、見上げればやはり夏の空。
じっとりと汗ばんだTシャツが肌に吸い付き、青春の燃焼と生命の躍動を直に感ずる。
汗の玉が光る節電の夏は、青春の輝く夏でもある。
注意)
熱中症にはくれぐれもご注意ください (汗)
昨日は暑さやその他もろもろでヘタレ気味でしたので、あまりペーパーバックは進みませんでした。
それでも部屋にゴロンと寝転んで仰臥の状態で10ページぐらいだったろうか読んで現在94/376の地点にいます。
いよいよ物語は大きく動き始めました(っていつも同じことを言っている気がしますが!!)
しかし今回は本当に大きな展開を迎えています。主人公の女の子と男の子の筋向いの彼女たちをとってもよくかわいがっており彼女たちも本当に慕っているMiss Maudieのお家が火事になり火の海なのです。
これは事件か?事故か?
今後の展開にどんな影響が(!?)
今日もコンビニバイトが終わったらじっくり向き合います。
これは2007年3月に一人旅で出かけたボストンのようすです。
ボストンといえば、前回読んだ "The Bell Jar"の舞台でしたね。作者Sylvia Plathの故郷でもあります。
教員免許を取得したら、またアメリカへの旅を計画していますが、"The Bell Jar"のボストンを再訪、"To Kill A Mochingbird"のアラバマ南部に行ってみる、など読んだペーパーバックの舞台となった土地を訪ねてみるというのもいいなあ~と思っています。
夕方のご時はんごろ、自転車をなんとなくゆっくりこいで近所にある学習センターの図書室に向かいました。
閉室が6時ですから、そうもゆっくりはしていられません。十四・五ふんの時間のなかで、いくつか心の赴いた本をかりました。
空は薄曇りですが、空いちめんのくもりではなく、ところどころから夕日がさしており、
辺りは、ほのかな夕焼け色にうっすら暮れなずみ、しかしどことなく曇っている陰影もまざっているまるでもうすぐに夕立のきそうな独特の夏の夕暮れなのです。
好い本を借りることができ、満足して鞄にそれらをつめ込んで、家に帰ろうと駐輪場の自転車の鍵をはずしたときのことでした。
強くもなく弱くもないとてもやわらかい風がどこからともなく渡ってきて、とおり過ぎて行きました。
やさしさのこもった一陣の風にからだをなでられている二つか三つぐらいの瞬間、心の中で立ち往生していた考えごとなどが風に乗ってどこかに飛んで行ったような感じがしました。
虚心となったその二、三個の瞬間、心は、遠い日の下校途中、小さな背中に大きなランドセルを背負ってひとり道草を食いながら歩いたときの心のようななにかそんなような幼年の想いで充たされていました。
なにかそれは長じるにつれてどこかに置き忘れてきた大切な想いのようで、また自分がいつか世を去る前にぜひもう一度いずれ立ち返ってみたいような想いでもありました。
ときどき、「あの日はどこに消えてしまったのだろう?」と昔日をなつかしむのですが、
実は「あの日」はどこにもいってしまっていないのですね。それはちゃんと自分の胸のなかにとどまっていて、
ふとした小さななにかがきっかけとなって、いっきにあの日のその日の真っ只中に自分が引き戻される。
そういう経験がひと月に一度でもあれば、心は心の本来の在り様を忘れないのでしょう。
しかし考えて見れば、子どもの頃というのは、ひと月に一度のそんなようなことが、毎日だったのですね。
見には見えぬランドセルやおどうぐ箱、さんすうセット。それは、大人になってもいやなってからこそ、忘れてはいけない大切な箱のように感じられるのでした。
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PBリーディング・マラソンの最初の一歩として読んだ"The Bell Jar"から間髪入れずに読み始めた"To Kill A Mochingbird"ですが、二日間で79/376(ページ)まで読み進めることができました。私としてはいいペースだと思いますが、しかし!です。しかし、この小説の英文は非常に厄介です。
以前の記事で"The Bell Jar"の英語は難解だと書いたかと思いますが、それはその時点で比べうる他のPBの読書経験がなかったためであり、本書を読んでみれば"The Bell Jar"が英語として(内容的にではない)いかに読み易いものであったかと気が付くほどに、"To Kill A Mochingbird"の英語には手こずっております。
いくつか言い訳のような理由を書きますが、この小説の舞台はアメリカ南部アラバマ州(アラバマ!!アメリカで最もキリスト教保守基盤の強い、換言すればWASPやRed Neckなどの非常に保守的な用語がどこよりも似合いそうな州ではないか!)でして、南部英語の独特の節回し(と思しきもの)のオンパレードなのです。
しかしそれだって慣れればそれほど問題ではありません。私が、これは私の読解力のイマイチさに起因することではありますが、最も手を焼いている(?)のは、地の文ではなく会話文の連続によって人物像やストーリーラインを浮き彫りにしようとする点です。
なぜそれが厄介であるかと言いますと、少なくとも私にはその会話の一つ一つが極めて抽象的な発言によって構成されていると感じられ、抽象的台詞の連続から具体的な物語の骨子を浮き立たせることが今の私の力量では難しく感じられるからです。
最初の20ページくらいを読んだ時点では、正直誰が誰で今何がどうなっているのかよく分からないという状況でした。このときは、「ああ、オレにはこの小説はまだ読めないのかもしれない」と軽く打ちのめされたのですが、"The Bell Jar"から学んだ一つの教訓、「最初は耐える読書でも後半以降引き込まれる読書に変わる可能性を信じよう」を思い起こし、昨日は40ページ読み、79ページまで進みました。
結果、ようやく物語が物語として私の頭の中で一本立ちして参りました。
不思議な縁とでも言えるのか、"The Bell Jar"は確か出版年が1965年。この"To Kill A Mochingbird"は1960年に出版。いずれも60年代なのです。
だからと言ってもいいかもしれませんが、作中に登場する黒人への態度は「野蛮」です。まだ人種的偏見が根強く、啓蒙されていない時代だったのでしょう。ニグロという今では恐ろしいほどの差別用語が平気で使われ、二グロには一切固有の名前を与えず、人格描写も皆無で、つまりは人間扱いしていないのです。特に"The Bell Jar"における黒人の描写はまるで酷かった。人権がそこにはまったく認められていない。作者シルビア・プラスのある種の「エリート主義」「偏屈的知性主義」と時代の空気がそうさせたのでしょう。そして実に作者シルビアのそうした狭隘なエリート主義が彼女の心を偏向的自己愛へと狭め、最後には絶命へと追い込んだ病巣の中核かもしれません。"The Bell Jar"で最も重要なキーワードは何かと問われれば、私は迷うことなく「処女性(ヴァージニティ)」を挙げるでしょう。主人公の若き女性エスター・グリーンウッドの強烈な自意識とそれと表裏をなす深い劣等感は、自分がまだ男を知らぬ、その事実を淵源としていることはこの小説の全編に通底する真実です。事実、物語の最後のほうで彼女は精神病院からの外泊許可を利用し、ボストンの街に繰り出し、道で拾った男と初めて臥所を共にする経験をするのですが(やっぱり彼女の狭隘なエリート主義によるのでしょう、その男は大学で数学を講じる知識人で美しい顔立ちの俊才なのです)、実にその「処女喪失」の体験がエスターに施された精神病院でのあらゆる治療に勝ってエスターの心を「普通」に引き戻した最大の「治療」だったのです。しかし、彼女が貞潔を破った事実に恐らく胸をえぐられるような衝撃を覚えた、彼女の極めて重要な友人にして同じ病院に希死念慮に憑りつかれ入院していた女性ジョアンは、止まらぬエスターの出血の止血に奔走した次の夜、ゆくえをくらまし、捜索の甲斐なく、ボストン郊外の氷った池で死体として発見されるのです。この物語を貫くのは「貞潔」や「純血主義」への過剰な自意識であり、そこにキリスト教的な性道徳が前後左右で影響を与えているのは殆ど間違いのないことでしょう。加えて、エスターが才女であったその知性も深く関連のあることです。
「舌先三寸で人をも殺す」という言葉を昔三浦綾子のエッセイで知った。
ヨハネによる福音書(新約聖書)は次のように始まる。
初めに言葉があった。
言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。
旧約聖書の創世記第一章を読めば、森羅万象は神の言葉によって創造されたことが分かる。
言葉というのは、世界を創り世界を滅ぼしもする。それはまさに神の領分に属する極めて人智を超えた人間には本当は扱いきれぬ類のものなのだろう。
だから不用意で険のある言葉によって誰かを深く傷つけてしまうことも有り得る。そして言葉によって傷つけられたその傷口は、転んで擦りむいた膝小僧の傷跡のように目に見えるものではない。
「舌先三寸で・・・」という警句は、そのようなことを云い得ているのだろう。
ブログというのは時に言葉のやり取りの場として危うさを孕んだ場所であると今日改めて痛感した。
なぜなら、面と向かってならば決して口にしないような直接的で強い感情の篭った言葉を、キーボードを叩くだけで送信されてしまうからだ。
パソコンの画面に向かっていると、世界は画面とそれに対する自分という極めてフラットな関係で切り結ばれ、ともすると自分の書きこんだ文面を現実に眺める他の誰かの「実在感」が限りなく希薄化してしまう。
繰り言になるが、それが結果として不用意な書き込みへと繋がる可能性は大いにある。
自分のつまらぬエゴのために誰かを傷つけること、それは同時に自分自身をも知らず知らずのうちに傷つけていることになると思う。
そんなことを考えあぐねて、公園のベンチから引き揚げとぼとぼと家に向かうと、玄関先にオレンジ色のともしびが柔らかく灯っていた。
「ああ、私もこんな柔和な灯かりのような言葉と心でひとを迎え入れられるやさしいひとになりたい」
そう心から想った。
行きつけの公園のベンチで今日から読み始めた二冊目のペーパーバック、"To Kill A Mockingbird "を39ページまで読みました。
座り心地の決して好いとは言えない堅いベンチに長時間腰を下ろしていると、お尻や背中が痛くなり、途中何度も立ったり、近間をうろうろしたりして、2時間半ほど読書の時間を野外で過ごすと、夏の夕暮れに時間は移ろっていました。
人生はそう長いものではない、と感じられるときもあり、そうであれば若い今のうちにたくさんの文学に親しみ、感性や物語の心への貯蔵を増やしておきたいという焦りにも似た感情に急き立てられ、ここ数日、一生懸命に勉強しています。
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英語を学ぶことや、英語を介して人と出会いコミュニケートすることに生きがいを見出している者として、ペーパーバックを一冊読み切るというのは、永年の夢であり目標でした。
しかし間断なく揺れ動く自分の心の性質からか、私は手を付けた何かを最後までやり遂げるということがどうしても出来ず、それが自分の劣等感として自覚されるまでに私を悩ませてきました。
だから、読み始めた"The Bell Jar"を一字一句飛ばさず最後の一行まで読み通す過程は、自分の弱点との闘いであり、それに吞み込まれるか打ち勝つかという葛藤の連続でした。前半を読み終えるまでは。
しかし物語後半以降は、以上のような自分の弱さが邪魔をする隙も与えぬほど、「読ませる」内容でした。
今日の夕方、愛してやまぬいつものミスドで、一気に後後半の80ページほどを読み切り、私としては極めて短時日のうちに全234ページを読み通すことができました。
ペーパーバック一冊読み切ったぐらい、平凡な出来事なのかもしれません。
多くの英語学習者の方々にとっては、とっくの昔に経験した第一歩かもしれません。
しかし私は次のジョン・レノンの言葉を持って自分の第一歩を讃えたいと思います。記憶は一寸不確かですが概略次のような言葉だったと思います。
「すでに多くの人が経験したことであっても、それが自分にとって初めてのことであるのならば、そこに大きな意味があるのです。」
最初の一歩が、あまりに無垢であり、あまりに純白であり、過剰に繊細であり、異常なほどに自意識の虜であり、胸が詰まるほどに病んでおり、息が詰まるほどに心美しき女性、エスター・グリーンウッドの物語であったことを誇りとしたい。










