- 実戦編 英作文のトレーニング/著者不明
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この本を読んでいると、基本的な単語の使い方を詳しく正確に把握しておくことが、きちんとした英作文をするためにいかに重要なことかが分かる。
という私はいかに基本単語の使い勝手を知らないかが分かった。
40ページの例題。
「食事を早く済ます必要があると、どうしても批評家がジャンク・フードと呼ぶものになってしまう」慶応・文学部
解説の冒頭に、この単語はこの場合ダメ、これはいい、と色々注意があって面白い。
例えば、foodは「食べ物、食品」の意味で、調理されたものとは限らない、とか、「速く」は「急いで」の意味だから、単に速度の速さを示すfastは不適切、とか、「済ます」をfinishとすると、すでに食べ始めていることになるので不可、などなど。
こういう説明を読むと、少し英作文をするのが怖くなる。自分が今まで「知らぬが華」で書いてきた英文をもしこういう目でチェックされたらボロボロだろうな、と思うと、次が書けなくなる。
しかし一方でいかに自分の単語の理解が大ざっぱで、「英作文に耐え得ない弱いもの」であったかも分かって、結局勉強になる。
差し当たり、この一冊に書いてある知識をおおよそ吸収してしまえるよう頑張ろう。
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以前、facebookで知り合いのアメリカ人がコメントをくれた。その際彼はどこかで"To each his own"という表現を使った。
「これは、なんだろうなあ」と意味が分からなかった。何かが省略されているのかな、などと勘ぐってみたがさっぱりだった。
最近、上掲の辞典をめくっていたら、「蓼食う虫も好き好き」という日本語の見出しにたいして、このTo each his ownが英訳として載っていた。
そして例文がオモシロかった。
↓
「キャロルはデイブのバカのどこがいいんだろう、さっぱり分からんよ。まあ、蓼食う虫も好き好きってやつだろうな。」
"What Carol sees in that jerk Dave, I'll never know. But I guess, as they say, to each his own."
特に注目したのは、定型表現とは別の部分で、What Carol sees in 誰それ。ここは、I'll never knowの目的節に相当するのでしょうか?
注目した理由は、see in 人のところ。人の中になにか魅力的なものを見て取る。そんな文脈でsee in 人が使われる場面に何度か遭遇したことがあります。
jerkもなんとなく微笑ましい意味合いすら感じる単語ですね。「マヌケ」ぐらいのニュアンスでしょうか???
「マヌケ」だったら、愛すべき存在ともとれますよね。
最近、NHKのビジネス英語のテキストに、knee-jerkという表現が出てきましたね。
こちらは「お決まりの」という意味らしいです。
記事中、間違いがあれば教えてください。
"To Kill A Mockingbird"のなかで拾った、何かの折りに使えそうな英語表現。
acquired an alien set of values.
文脈としては、兄貴のJemがある体験を通して急にコマシャクレテ大人ぶった態度を取り始めたことに、戸惑いを隠せない、というより甚だしい迷惑を被っている妹のScoutが地の文でいったこと。
Jemはまだ年端もいかぬ12歳なのに、崇高な父親の生き様に必要以上に感化されて、自分も崇高な生き方へと猪突猛進しはじめた。困っちゃったのは妹のScout。いちいちJemはご立派な考えを妹に押し付けてくる。まるで「道徳教材の押し売り」状態。
そういう文脈で登場するのがこの表現。「どこで拾ってきたんだか、アイツ価値観180度変わっちまったなあ」程度に「軽い」言い方なのかは不明ですが、そんな感じなのでしょうか?
間違っているかもしれません。その時は教えてください。
それにしても作者のHarper Leeさんはどうして彼らの父をここまで崇高な人物として描いたのだろう。
彼女の実の父はどんなひとだったのだろう?ほんとうにAtticusのように立派な、人間としてこんなに立派になれるのだろうか?というほどまでに立派なお方だったのだろうか?
それとも、彼女の実父はそれとは正反対の見るべきところのない父親だったのだろうか。それゆえ反動として正反対の聖人のような崇高な人物としての父親像を構築したかったのだろうか?
昨日、読んだ本のなかで臨床心理学者の河合隼雄さんは、「物わかりのいい親を持つことほど子どもにとってしんどいことはない」と言ってらした。
Atticusの場合、「物分りのいい父」という感じではないです。「崇高」、それはやや宗教がかったほどに「崇高」で、およそ人間技ではないほどに「崇高」な感じがします。
ぼくは、正直こんな立派な父を持ったら、いつまでもいつまでも追いつくことすらできない偉大な父の背中の前にくたびれ膝を折り、やになってしまっていたかもしれません。
神戸女学院の、、、なんでしたっけ、、、、、、、、、、
結局失念。有名な仏文学者の方が、「父親の為せる最大の仕事は、息子に、ああ、ダメな親父だなあと感じさせ、こんな親父となんか一緒に暮らせるか!と言って家を出て息子が自立するのを助けることだ」みたいなとってもユニークでユーモアの光ることを著書に書いておられました。
内田樹先生でした。大変失礼いたしました。
そういう観点から言っても、Atticusのふるまいは読んでいて、キリストの言葉を読んでいるような錯覚すら覚え、心洗われるのですが、しかしふと冷静になってみると、以上のような複雑な心境を抱いてしまいます。
ああ、このあとこの二人の子どもはどうなってしまうのだろう。
ぼくの拙い直観では、兄のJemがいずれ起こるであろう「事件」と深く絡んでそうで怖い。
個人的には、性格がとてもかわいらしい妹のScoutが無事であって欲しい。
しかしそうはいかないのが常ですよね。先を読むのが楽しみなようで怖くもあります。
第一部と第二部の二部構成で成っているこの小説の第一部を読み終わりました。
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今向き合っている上掲のペーパーバックですが、最近カタツムリ並みの速度にペースダウンしていますが、それでもえっちらおっちら進んでいます。
昨日までに131/376まで来ました。
徐々に徐々に、この作品が名作として評価が高い訳が判ってきました。
JemとScoutの父親はAtticusというひとで、子どもたちはクラスメイトらの父親とは違って、
年も取っているし、他の子どもたちの父親がするようなことを一切しない(できない)やらない、Atticusのことをなかなか尊敬できないんですね。
ところが、ある出来事をきっかけで彼らの父に対する見方が変化しだします。
まあ、とにかくこのAtticusというひとは、子どもたちにはなかなかにわかには理解できない次元においてとにかく立派な方なんです。
読んでいて、「ああ、これはたいした人物だ」とか「こんな父を持てたScoutとJemはいつその偉大さを身に染みて感じるのだろう」とか思うわけです。
今日は久しぶりにカフェに出陣して、じっくり本作品と向き合いたいと思います。
Take my photo off the wall
if it just won't sing for you
'Cause all that's left has gone away
And there's nothing for you to prove
Oh, look what you've done
You've made a fool of everyone
Oh well, it(以下省略)
オーストラリアはメルボルン出身のバンドJET。ビートルズを意識しているようにも感じられるPV。ボーカルの中性的でどこか悲哀を感じさせる瞳。本当に叩いてるとは思えないドラム。恐ろしい爪を持った動物。そして、ぼくの写真を壁から剥せ。お前のしたことをよく見ろ。みんなを愚弄したお前のことを。という恋人?友人?に向けられた厳しい言葉。優しく澄んだしかし不思議な瞳のなかに、一切を見透か眼力のようなものも感じる。
ところで、壁から写真を剥せは、そのように言うのですね。自分ならTake my photo off "from" the wall と日本語の「から」に引っ張られて余計なfromを加えてしまいそうです。
また基本的なことかもしれませんが、お前のなしたこと、はwhat you didではなく、現在にも及ぶ影響を考えて(自分だけではない周囲の人たちへの影響)現在完了時制を採用していますね。過去形にすると過去はある種の「断絶」であって、今との関係性は含まれないので、「現在への影響」を感じないのでしょうね。
なかなかどうして意味深な歌、のような気はします。
今年の5月に英文ブログをGoogleで運営しているBloggerというところで始めました。
最近は英語で書くのが億劫で1か月ほど放置していますが、先ほど久方ぶりにブログ管理画面を開いてアクセス解析を覗いてみた。(国別単位でどこからアクセスがあったかが分かる。ただし、日本とかアメリカなどのおおざっぱなくくりであり、いちいちたとえば岐阜県とか愛知県からアクセスがあったなどは解からない。分かったらもっと面白いのだけれど。。。しかしそれだと逆にハマってしまいそうですね苦笑)
5月に始めたばかりなのに、次のような国別統計が表示されて驚いた。
Japan 878
United States 131
India 19
Germany 15
Canada 9
Australia 5
United Kingdom 4
またこの英文ブログを通して、アメリカの読書おばさん(?)たちと交流が持てた。いま、ブログは放置状態なので交流は途絶えているが、そのうちまた再開して彼女たちに積極的に関わっていけたら、英語の世界も広がるような気がする。
正直な話し、私の英語ブログの英文は自分で言うのもなんだが、ネイティブから見たら小学生の絵日記程度に過ぎないと思う。
しかし、そうやって怖気づいていたら何も始まらない。時々お邪魔するアメリカの読書おばさんたちはネイティブのなかでもとりわけ言葉の素養が素晴らしい方々なんだと思うから、尚更気後れしそうになるが、言葉の修行における「恥」は「かき捨て」が大原則。
加えて、私はオーストラリアのある有名な心理学者(数冊の著書がある方。うち一冊を購入した)にメールを送った。自分のいろいろな悩みを書いて勇気をもって送信した。そうしたら5時間後に返事が返ってきた。それがきっかけとなり、この方とはその後も何度かメールのやりとりをさせて頂いて有意味なアドヴァイスを頂いた。今彼女の本やブログから非常に大切なことを学んでいる。
よく、英語ができると世界が広がります。というキャッチフレーズのような言葉を耳にする。以前は、「そんなもんかね~。何年も英語を勉強しているが、ぼくの世界は一向に五円玉の穴ぐらいだよ」と皮肉った態度を取っていたが、それは自分が気づいていなかっただけで、実は英語を通して多くの海外の友人ができ、そしてなにより、彼らとの交流(一緒に飲みに行ったり、愚痴を聞いてもらったり、励ましてもらったり、慰めてもらったり、、、ってそんなんばっかりだ苦笑)を通してぼくは、計り知れないほど心が救われた。
こういう体験を、いつか英語なんて!とつぶやかざるを得ない学校英語にヤラレテしまった子どもたちに伝えたい。
そのためにも、英語の教員になりたい。
今日、その風に吹かれながら公園のベンチに腰を下ろし、ぼんやりしていると、改めて自分の目標は高校の英語教師になることなんだ!
県立でも私立でも進学校でも(いわゆる)底辺校でもどこだっていい!自分を必要としてくれる学校ならどこでも働かせて欲しい。
そのために、いま辛くても忍耐を働かせてまずは教員免許を取得するんだ!もうすぐそこまで来ている。
ここで腐ってはダメだ。
と自分の初志を心の底から確認・実感することができたら、色々なストレスや抱えていることがすーっと立ち消えて行った。
目標を持つこと。それをときどき忘れてもいいから、でもちゃんと思い出すこと。希望を持つこと。いつか素敵な日々が必ず訪れると信じること。
ああ、それは本当に大切なことなんだと、感じている。
目標があれば、なんであれ、どんなものであれ、目標があれば、今日を耐えて明日に希望が持てる。
ああ、それは本当に素晴らしいことだと感じる。
今日は海の日。これからお寿司を食べに行ってくる。
スナフキンは実に多くの者から崇拝されています。
ある夜、森の中でスナフキンは五感を研ぎ澄ませて、森の音に耳を澄まし作曲に取り組んでいました。
折角音楽の尻尾が掴まりそうになったとき、はい虫がスナフキンを求めて現れます。
はい虫はどんなに自分がスナフキンを尊敬しているかを訴えます。
なんとかして自分の苦悩をスナフキンに解決してもらいたいのです。
最終的にスナフキンはこの名もなき、むしろ名を持てない没個性に苦しんでいたはい虫に「ティー・ティー・ウー」という名を付けてやり、はい虫の心を救済するのですが、
出会った最初の頃に、スナフキンが自分を崇拝するはい虫に言った言葉が非常に印象深い言葉であり、
それはまるでスナフキンの生きる上での哲学を実によく表現しているようでもあります。
「おまえさん、あんまりおまえさんがだれかを崇拝したら、ほんとの自由は、えられないんだぜ。ぼく、よく知ってるがね。」
この短いスナフキンの章のテーマは、しっかり自分を持って現実と向き合いながら生きる、そういうことなんだとぼくは読んで感じました。
名前を持たない没我のはい虫たち。しかしスナフキンに救済を求めてにじよってきたはい虫は、それではいけないんだ、なんとか自分を持ちたい、自分が自分であるために自分を確立したい。
そう願っていました。その時点で彼は他のはい虫とは違っていたのです。
はい虫は尊敬してやまないスナフキンに名を付けてもらい、憑き物がとれたように生き生きとした様子でもうまるでスナフキンに頼らなくても自分で生きていけるんだと言わんばかりに、どこかえ颯爽と行ってしまいます。
恐らく、スナフキンが一番嫌いなことは、なにかに心がとらわれ、あるいは、なにかに考えが縛られ、心の自由や流動性が失われることなのではないでしょうか。
難しい言葉でいうと、融通無碍(ゆうずうむげ:ニュートラルな状態のこと)とした心の在り様を失うこと、それこそが、スナフキンが最も忌避する事柄ではないでしょうか。
しかしそうは言ってもスナフキンとて、大切な友人のムーミントロールのことで頭がいっぱいになってしまったりもするんです。
でも彼は飽和した心がそれ以上に溢れてしまわないためにどうすればいいかを知っています。
彼にも苦悩があり、葛藤があることはこの物語にも十分描かれています。
しかし彼は独特の生き方の「節回し」によって、ひょいとそれを放り投げるんですね。
そして音楽を作る。
いや、もしかしたら違うかもしれない。心が葛藤でひしめきあっていると、それが何かの引き金になって、突然スナフキンの心に音楽が生まれたりするのかもしれない。
スナフキンは、仙人のような隔世の境地にあるのでは決してありません。彼にも葛藤がある。しかし、スナフキンはそれに吞み込まれて自分を見失ったりはしない。しかもスナフキンの葛藤は多くの場合、友や身の回りの悩める誰かを想っての葛藤です。彼には、自分の中心あるいは軸がきっちりと定まっていて、その中心から外れて迷ってしまうことがない。
それが
「おまえさん、あんまりおまえさんがだれかを崇拝したら、ほんとの自由は、えられないんだぜ。ぼく、よく知ってるがね。」
という言葉につながるのではないだろうか?
あまりに深く、あまりに素晴らしい物語に、読後深く深く強い感動を覚えた。
と、スナフキンに言ったら、きっと彼は
「おまえさん、あんまりおまえさんが。。。」
というくだりを言われてしまうでしょうね。




