おそるべきインド映画 | サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

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 先日、習慣にしている映画館通いをしたところ、ものすごい映画に遭遇しました。

 あまりに凄さに腰が抜けてしまってもう元に戻らないんじゃないかと思うほどでした。

 その映画のタイトルは、サラールと言います。

 インド映画です。

 インド映画といえばもう、RRRがひたすらすごい作品でした。

 近年のインド映画ではバーフバリも劇場で観ましたし、囚人ディリなんてのも観ました。

 どれも面白かったのですが、まずはRRRが桁違い。

 アジア人の、特にインドの世界観という、我々現代日本人が見失っている世界観を突きつけてくれる素晴らしい映画体験を与えてくれました。

 何しろ我々は、黄色い肌にアメリカ人の価値観という植民地的な教育下で暮らしていて、アメリカ式市場経済を下支えするためだけのコマとして生きるように育てられています。

 生のままの生命を生きるアジア式の価値観はとっくに見失ってしまっているので、神話そのもののRRRの価値観には度肝を抜かれる次第です。

 サラールは、そのベクトルでさらにすごいところにありました。

 最初に書いたように、私は習慣として映画館に言ってこれを観たので、前情報が何もありませんでした。

 トレーラーでは合戦の様子が写っていたので、RRRの植民地時代よりももっと前、バーフバリのような時代のお話かと思っていました。

 確かに冒頭、一瞬合戦のイメージ映像が現れるのですが、そこからがもう、めちゃめちゃ話が吹っ飛びます。

 テロップに出る1980年代の表記。

 割と最近のお話だ、と思っていると、そこに映るインドのピット・ファイト会場。

 おぉ、もしかしてこれ、インドのマーシャル・アーツ映画なのか? 最高じゃん! と思っていたらそれも瞬時に飛び越えます。

 あ、これはジェームス・ボンドみたいなエスピオナージュ物なのね、と思ったらまたこれも変わってゆきます。

 この変遷を経てたどり着いたのは、かつてインドにあったジンギス・カンの支配地域の話。

 そこに住み着いた彼らの一族は、およそパキスタンほどの国土を占有していて、それらを101の区域に分けてそれぞれ藩王が統治。

 この地域の人々は、まさにRRRの時代にイギリスからの侵略に抵抗して、現代のインド政府に治外法権と、地図から存在を消すことを要求し、そしてその権利を獲得します。

 つまり、現代インドには地図にない、治外法権の「国」が存在しているという設定です。

 これが無反動砲を備え付けた高い壁に囲まれた要塞都市として存在しています。

 この映画は、この国の中での、藩王同志の宮廷陰謀劇なんです。

 この藩王達が、RRRの主人公、ラーマと同じく、完全に宇宙を統べる神々として描かれています。

 そして同時に、マフィアのドンのように描かれているのですね。

 実質軍閥なんですよ。

 かつて関東軍が王道楽土の法華の仏徒として軍閥活動をしていたように、この藩王たちもインド・マフィアのドンで軍閥を率いる存在です。

 それぞれ、ロシアの元KGB所属の一個大隊やウクライナのネオナチ師団、アフリカの反政府軍などの戦車部隊を所有しています。

 そういった藩王たちの中に、かつて親友のために領土への背反を働き、王位から地に落とされた若き公子が居ます。

 街中の人から見せ下られはてて、つばを吐きかけられるような不可触賎民枠の流刑者のような公子です。

 その彼には、十名程度の取り巻きがいるのですが、いずれも脆弱だし、なんなら彼のことを自分の身分をも引き下げたバカ殿だと思ってさえ居ます。

 上に書いたような強力な力を持つ、マイケル・ムアコックが描く混沌の神々のような邪悪で綺羅びやかな藩王たちとは比べ物にならない。

 しかし、彼にはたった一人の軍隊が居たのですね。

 それがこの映画の主人公です。

 強大な軍勢を率いる部隊に対して、たった一人の男。

 当然他の公子は彼を嘲笑います。

 ですが彼はこう言います。

「お前は俺が連れてきた者の名前を知らない。それは、本物の狂気だ」

 これは、スペース・オペラのように描かれるゴッド・ファーザー版の宮廷陰謀劇に現れた。すべてを暴力と狂気で破壊する強力な破壊神の映画なのです。

 彼はサルタンに封印された嵐に例えられます。

 嵐の前兆が訪れたとき、周りの子供達や女性たちという、自然とつながった者たちは詠唱をします。

「スルタンが嵐を解き放った。スルタンが嵐を解き放った」

 そして人知を超えた暴の嵐がすべてを破壊する。

 このコントロールは、スルタンに例えられる彼の公子にも止められません。

 公子に屈辱が与えられたとき、主人公の暴は吹き荒れて、社会化された人間のちっぽけなシャバの生活などは全て失われてしまいます。

 その最中の、彼の悲しそうな顔。

 終わったあとで、怒鳴ります。

「俺は、辞めてくれるように親切に言葉で頼んだんだ。なのに奴らはお前に触れた!」

 それから俯いて。

「……すまなかった……」

 もうこれ、イコライザーのマッコールさんと同じなんですよ。

 マッコールさんが戦の神だったらって話ですよ。

 これもまた、インドの神話的価値観の世界だからこそ説得力がある。

  下敷きになっているのは、マハー・バーラタだと聴きました。

 ぜひ、アジアの力を感じたい方、サラールで腰を抜かしてください。

 振り返ってみれば、映画を観ている時間をとおして、自分が想像もしていなかったところにまで連れてきてくれた経験というのは、生まれて始めてみたスター・ウォーズ以来のことでした。

 そのくらいにすごい作品です。