フュリオサのような存在のことを英雄というと書きましたが、キャンベル神話学に置いては英雄には明確な条件付があります。
それは「英雄の旅」と言われるイニシエーションを経て「行って帰る」という結果に至ることです。
そのために、英雄譚のことを「行きて帰りし物語」などと言うわけですが、これはどういうことかというとこういうことです。
まず、人は生育環境から影響を受けて子供時代を過ごします。
次に、その環境下で大人になるための社会化の通過儀礼を受けることになります。
それによってその社会に適応した、規格化された大人として社会の一部になってゆきます。
通過儀礼によって社会的存在に変化するわけですね。
しかし、ここから2つの例外が現れます。
一つは通過儀礼の世界に居着いてしまう存在です。
通過儀礼というくらいなので一過性の通貨をしてゆく地点なのですが、そこにそのまま暮らすようになってしまう人々が一定数でます。
通過できなかったのですね。
こういう人たちをシャーマンといいます。
これらの人たちは儀式の運営者という特殊身分として生きてゆくことになります。
現代的に言えば、学校の先生や警察官、お役人でしょうか。
彼らはペーパーテストとスポイルされた環境という学校やそれに類似した社会の中から出ることなく、年齢だけ大人になって一生を過ごします。
実社会経験は皆無です。
シタデルに100人程度しか居ないけれどもその存在を支えている特殊階級のウォーボーイズなどはまさにこの人々です。
これらの人種であり、かつ現世権力の高いリーダーのことをシャーマン・キングといいます。
原始社会の王というのは皆これだったとも言います。
イモータン・ジョーというのはそういう人です。
ディマンティスも同じです。
彼も自分を飾り立てる逸話で仮想の価値観をでっち上げて、儀式で人心を先導してポピュリズム集団を運営していった結果、そこから出られなくなってしまった。
彼の場合は、それがすべて嘘であってもうすでにそのまま先細りになって滅びるしかないことがわかっていながら、みんなの手前行けるところまでごまかして芝居を打ち続けるしかないという状況になっています。
おそらく、わたしたちの社会の会社などではこの手の人々が溢れかえっています。
イモータン・ジョーのような大物にはなれないけれども、小盗のような俗悪として溢れかえっている。
このような行きて帰りし通過儀礼に失敗して行ったきりになってしまった人々の思考やその集団を、キャンベル教授はカルトと呼んでいます。
スピリチュアルや陰謀論もこの類です。
次回はもう一つの例外である英雄についてお話しましょう。
つづく