さて、前回までで概ねの神話構造については書いてきました。
今回は、キャンベル教授の独自の解釈である、聖書も政治利用によって矮小化されて宗教になったが、本来は神話であった、という観点から少しおまけのお話をしましょう。
マッドマックス・シリーズはそこからスタートしないと解釈しがたい構造になっているからです。
今回の作中、フュリオサは二度奈落に引き込まれかけます。
一度目は幼いときで、これはディマンティスによって助けられます。
おそらく、この縁によって彼女はディマンティスの寝首を掻くこともなく、義理の娘という位置に封神されてしまったのでしょう。
二度目は完全にその奈落に入ってしまいます。死にかけて、目を覚ましたら奈落だったのです。
そこではかつての母を思わせる女性の亡骸に蛆が湧いており、そこに住む女性(老婆)はそれを食料として養殖してこの地下に安住をしている住民でした。
昆虫食ということを考えれば、これを忌まわしく思うべきではないかもしれません。
しかし、これは作中でフュリオサが最も恐怖の表情を浮かべるシーンなのです。
これはつまり、奈落における母との再会、そして安住の選択を意味しているためでしょう。
彼女が怒り狂った復讐の生き方を辞めて、無抵抗な安らかな生を望めばここでそれが手に入った。
だからこそ彼女はその安らかさを恐れたのでしょう。
この、地の下の世界に死んだ母が居り、ウジ虫が身体に湧いていて、ヨモツシコメが住んでいるというのは、日本神話のイザナミのミコトのエピソードを思わせます。
夫のイザナギ神は死んだ妻を求めて黄泉の国に居り、そこで腐敗してウジを沸かせたイザナミに出会って恐れをなして逃げ出したのですが、己の姿を観て逃げた夫に対してイザナミは怒ってヨモツシコメたちに追跡を命令します。
この時に、イザナギは桃の実を投げてシコメ達が貪っている間にそのまま逃亡するのですが、この桃というモチーフが今作にも登場します。
初めにフュリオサがさらわれてきてディマンティスと出会い、彼女が楽園から来たのだと分かるシーンの小道具が果実で、あれはおそらく蟠桃かなにかです。
その桃の実る土地を求めてディマンティスはフュリオサを鹵獲するのです。
ウジと桃というのはこのように、日本神話では死と生を象徴するモチーフとなっています。
イザナギが黄泉の国から逃げ出したところで、イザナミは彼を恨んでこの後地上に生まれる全ての子供を毎日殺し続けてくれようと呪詛します。
それに対してイザナギは、ならば死ぬよりも多い子どもを地に満たそうと宣言します。
そのような生と死の循環、そして生が勝るという豊穣を表現しているのがウジと桃です。
当然、マッドマックスの世界ではこのバランスが逆転していることによって、全ての登場人物が追い込まれているのです。
イモータン・ジョーは曲がりなりにもこの豊穣を獲得しようと搾取と簒奪を行っているのですが、ディマンティスにはその意識がない。
ただその場限りの桃を貪ることしか考えていないのです。だから彼は単なるトリック・スターなのです。
トリック・スタートはすなわち、無意味なことをする存在のことです。
この無意味さで多くの人が迷惑を被るのですが、その中で化学変化が起きて大きな発展もまた起こり得れば、崩壊を招くこともあります。
北欧神話のトリックスター、ロキが無意味ないたずらで世界を滅ぼすような真似をしたため、神々は滅び、永遠の生は世界から失われます。
しかし同時に、神々が滅びたことによって人間の世界が創生されます。
この生と死の交代、パラダイム・シフトなんですね。
ディマンティスのまったく無駄なバカ行為があったから、新世界を想像するフュリオサが生まれたのです。
つづく