マッドマックスと形式主義の末路 1 | サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

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 70年代から続いている人気シリーズ、マッドマックスの最新作、フュリオサを観てまいりました。

 シリーズと書きましたがこれ、非常に特殊な繋がり方をしています。

 というのも、一作目はインディーズ映画のような物で、それ以降の作品とはまったく違うのですね。

 いわばターミネーター・シリーズのような物です。

 一作目はホラー映画として作られているのです。

 これを作ったジョージ・ミラー監督は当時医学生で、緊急医療の仕事をしていたそうです。

 オーストラリアというのは国土が広く、警察の数が少なく、ほとんどの人が車に乗って生活をしているため、夜間の交通事故が非常に多かったと言います。

 誰も取り締まらないから猛スピードで走り回るのでそうなってしまうのですね。

 そこでミラー青年は「交通ルールを守らないと危ないよ」というメッセージを送るためにこの映画を撮ったと言います。

 内容は、だいたいロボコップくらいに治安レベルが悪化した近未来のオーストラリアらしき国で、暴走車が沢山居るので警察官は暴力傾向が強くなって犯罪者狩りを楽しむようになっている中、真面目な警察官であった主人公が馬鹿な暴走車に妻子を殺されて、殺人鬼となって危険運転者たちを殺害するようになるというお話です。

 この、法では裁けない悪への私的制裁や暴力の肯定のような傾向は、ダーティ・ハリーやデス・ウィッシュシリーズなど、当時流行していた暴力映画の文法に則ったものだと推測されます。

 この映画で世の中の人達は、オーストラリアにも映画があるんだということを知りました。

 まぁ、医大生が作った自主映画のような物だったのですが。

 とは言え、この作品はアメリカではともかく、ヨーロッパや日本市場で大ヒットしました。

 そこで二作目が作られたのですが、これがもう冒頭で驚かされました。

「マックスの物語を覚えている者は幸いである……」と、聖書の朗読のような語りから物語が始まるからです。

 国内向けの自主映画ではなく、世界市場を視野に入れた映画を作るに当たって、ミラー監督が私がいつもここで上げている神話学を研究した結果だというのです。 

 つまり、これによって以後の全てのマッドマックスは「原型となったお話を聴いた人づてに伝わっていった神話や英雄伝説」として作られることになりました。

 ですので、一作目のマックスと二作目のマックスが同一人物なのかはわかりませんし、二作目の内容が本当にあったことなのかもわかりません。

 もしかしたら、一作目のときの殺人鬼になった警官の話に尾ひれがついて、語り部や聞き手たちの社会における物語として脚色されたのかもしれません。

 というのも、二作目でぶったまげたことのもう一つが、前作では警察機関も機能しており曲がりなりにも社会が形成されていたのですが、二作目では完全にファンタジー映画のようなワイルドな状態に世界観が変わっていたことです。

 いわゆる、ポスト・アポカリプス物というジャンルを切り開いたのです。

 これがこのシリーズの最も画期的な要素であり、世界的に記録に残るものにした要因です。

 

                                        つづく