古い日本武術には、二十や三十くらいの組方が伝わっていて、それを反復することが稽古となっておりますが、それらの技の中には、玄蕃留、風呂詰め、導母の杖、などのように元々は特定のシチュエーションで使われた勝ち手を型として保存している物があります。
それらが設定された初期の段階では、単純に相手がこうきたらこうする、というシチュエーションごとのマニュアル、日本語でいうと雛形だったのでしょう。
しかし、そこからその中に働いている理合いが抽出されて普遍的な要素が反復されるようになって行ったとき、その流派にはアップデートが行われたことになるのでしょう。
中国武術は基本的にこのアップデート後の抽象化が当たり前であり、だからこそ生の実用法ような物はほとんど練習されません。
門外漢からすると何をしているのかわからないような具体性の無い練習ばかりとなります。
逆に、実用性のある練習は「応用」と呼ばれるようになり、一つの普遍的な動作の中に最低3つはその応用がある、というのが定説化しています。
これらの雛形と普遍的な練功の関係は、いわば掛け算九九と方程式のようなものと言えましょう。
掛け算九九にはそのままでは限界がありますし、方程式には具体性が無い。
格闘技をするならひたすらの九九の反復が必要となります。
気が遠くなるほどの時間を、コンビネーションやスパーリングに費やしてゆく。
それらの通りの動きが試合でハマったときには、そのまま勝利が訪れます。
一方で我々先進国と言われている国の趣味で武術をやっているような人間たちからすると、ほとんどの場合は具体性には意味がありません。
いきなり柱の影から切りつけられて帯刀した状態からすかさず抜刀して迎撃したり、曲者に対して鴨居から槍を取って応戦したりはしないからです。
となると抽象化された理合いを学ぶことに意味があるのですが、これもまた正当な継承者にしか伝承されるものではないので、ほとんどの練習者には抽象性の獲得も起きません。
残るは単なるスノビズム、すなわち形式の反復という行為そのもの。その目的化です。
しかしこれは我々甘やかされて腹の出た国の中年男性ならではのお話。
フィリピンでは、いまだに現地の武術、アルニスを実用の意図で練習しています。
それらの武術の中の古い流派には、実際に刀剣で切合をした時の勝ち手がそのまま型として残っている物も少なくないようです。
ただ、現在のアメリカや日本で普及しているモダン・アルニスの諸流ではこれらはとっくに淘汰されていて、もうちょっと裕福な人たちの趣味に適したアップデートが行われているようです。
私が継承しているラプンティ・アルニス・デ・アバニコでも、勝ち手の雛形は残っていないようです。
二代前の宗家であるSGMフィルモコン・カブルナイがミンダナオ地方で武者修行を行って沢山の雛形を集め、それらを抽象化してナンバリングしたものが現在のシステムとなっています。
ですので、いまの練習でこれらを勝ち手として行うことはやはり意味がありません。
いくらでも代替可能な、普遍的要素の練習として取り組むことが本質看取であると思われます。