前回は、戦前のサラリーマンとはつまり、丁稚奉公の小僧だということを書きました。
最近の教育ではこれは変わってきてる意見のようですが、わたしたちの時代には士農工商という言葉がありました。
社会階層において、商人というのは賤業で最も階層が低いという説です。
江戸時代の価値観が続く明治時代に、サラリーマンというのは商家の丁稚だと私は書いているわけですが、これをオルテガ・イ・ガセット先生は「大衆とはつまり、根無し草だ」と表現しています。
本来なら、稼業を得ている人間というのが、産業革命前の社会における一人前の人間だった訳です。
猟師なら猟師としての技術と経験がある。
農家なら農家としての土地と使用人といった機構を確保しています。
職人であるなが技芸と流通のルートを持っています。
ですが、それらを得ることが出来なかった人間、それが大衆です。
自分の力で身を立てる能力を得られなかった人たちです。
農家の次男や三男ならば、土地が継げずに兵隊にやられるか丁稚に出るかしかなかった。
その奉公先が会社です。
会社という大きな機構が力を持つ組織で、員数、マンパワーとして機能するに至った人たちです。
特別な力がなくても、頭数が必要だという仕事をするためにそこにいる人達です。
本当に少し前までの地方ではこの考え方があり、高校を卒業した若いものが集団就職で都会に出てきていました。
なんの経験も技術も資本もなくても、居さえすればひとまずは仕事に成る。
だからオルテガ先生は彼らを根無し草だと呼んだのです。
しかし、恐らくは現代社会の都市生活者で、スーツを着たサラリーマンに対して「能無しの根無し草だ」と思う人は少ないのではないでしょうか。
それが前回も書いた、外国の人たちがサラリーマンを「紳士」だと思っていたのに驚いた、ということに繋がります。
なお、当時の同様のエピソードでは、日本ではスーツ姿の紳士が人前で酔っ払ったり立ち小便をしたりと非常に野蛮だと驚かれていたという物も目にしました。
そう、彼らはイギリス式の価値観を持っている外国人からするとスーツを着た紳士の外見をしていますが、実際の社会階層は「大衆」、せいぜいが電車の中でポルノ小説を読む「知的大衆」でしかありません。
文字が読めるから知的などと言われていますが、内面が教育はされていない。
農夫や職人以下の大衆というのが実態です。
それが本来はサヴィル・ロウで誂えられたように見えるスーツを纏っている。
これはね、戦後の焼け野原でリセットされたところからお仕着せで作られた環境の結果です。
しかしこのギャップと誤解がひょうたんから出たコマで、高度成長期とそれに次ぐ大量消費社会化によって恐ろしいことになりました。
つまり、外見だけが紳士で中身は下層の労働者であった彼らが、本当に資産だけは世界的に高いレベルで所得し始めたのです。
これによって、内面はお店の丁稚に過ぎないかれらは本当に紳士の階級であるかのような誤解が強固に上書きされていってしまいました。
この結果、日本社会は破滅的な道を直行してゆきます。
つづく