用勁と本道 | サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

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気持ちよく生きるためのライフスタイルとしての南派拳法(カンフー)蔡李佛拳とエスクリマ(フィリピン武術)ラプンティ・アルニス・デ・アバニコを横浜、湘南、都内で練習しています。オンライン・レッスン一か月@10000で行っております。
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 先日の練習で、師父から白眉拳の段階的発勁練功法を教わりました。

 より厳密に言うと、これは龍形拳に本来伝わっている物です。

 しかし、師父が学んだ広東の武館は、客家武術の総合的な教育機関で、白眉拳の先生や龍形拳の先生などがいて、それぞれ間でも教えあっているためにこれらの共通項や差異を体系的に学び、かつ保護するということができる場所であったようです。

 そのために、私は最初に師父からは龍形拳を学び、それから白眉拳にゆき、合間に「これはおまけだ」という形で詠春拳を学んだのですが、実際に師父が学んだ順番ではまず詠春拳、それから白眉拳、そして龍形拳、という物だったそうです。

 詠春拳がまぁ、もっとも簡便な物なので初級と言うのは分かるのですが、龍形拳と白眉拳に関しては私は長いこと誤解していました。

 ついつい、龍形拳の方が分かりやすいので入門拳法なのかと思っていたのですが、それはあくまで良くまとまっているから最初にやったというだけで、実際は「白眉拳がちゃんと出来るようにならないと龍形拳の続きは教えない」という扱いで非常に厳密に保持されていたそうです。

 これらの武術に加えて、師父からは太極拳と洪拳も教わっており、また老師からは通背拳と五祖拳を教わっています。

 通背は全く違う放鬆の勁力の物なので大丈夫なのですが、洪拳は長勁と短勁が両方入っており、現段階では師父は私に短勁を学ばせることが目的であるためにその部分が強調されて教示されます。

 太極拳、五祖拳は短勁の鋭い拳法です。

 先日、何気なく普通に突きをしたところ、自然に短勁の瞬発をしてしまいました。

 拳でも開掌でも同じです。

 短い距離で段階的な加速をしようとしても、ついつい無意識に瞬発的な爆発をしてしまう。

 長勁の寸勁を取り戻すために何度か繰り返さないといけませんでした。

 一番長くやって来た蔡李佛の功が、他の武術によって奥に引っ込み始めてしまっている。

 これは困ったと思っていたら、師父が「太極拳はこれまでに学んできた武術を全部壊すためにやるんだ」と言われました。

 同じように勁を用いるのですが、これまでの用勁で行ってはダメなのですね。

 そしてそれは、これまでの功を保ったままでなくてもいいと言います。

 一度壊して、それから今度は短勁がなれた時に、恐らくはまた立ち上がってきて再形成されるのでしょう。

 先日、学問に関してある文を読みました。

 それは、どれだけ博識で意見のある作家でも、一貫した体系が感じられないことがある、という内容の物でした。

 一貫して一つの物を突き詰めていないと、そうして断片を繋ぎ合わせた物になります。

 それは、確かに雑学として色々物を知っているとは言えるのですが、本当に物を学んだ学識のある人間だとは言い難い。

 私がいつも言っている、断片の寄せ集めでは全体は出来ないということです。

 現在この国でスタンダードとなっている認識は、現代武道の歴史をそのまま継承した、断片の組み合わせによる個人的な武術の再生産という物だと言って良いでしょう。

 これは、まさしく近代の欧米植民地主義のスタンスそのものです。

 そのような文化帝国主義の寄せ集め的ファースト・フードが本物の武術であるものでしょうか。

 私は本物の人生を生きた本物の人間でありたい。

 だから当然、武術も本物として身に通します。

 正しい物と共にあることが、正しい生き方の寄る辺となる。

 この世には正しい物があるのだと言う核心として信念の支えます。

 偽物で満足して偽物しかない中で生きていると、どうしても偽物人間として偽物の世界を生きることとなる。

 そういう風には思いませんか?

 そしてそういう考え方のそういう人間が沢山いることが、偽物ばかりの社会と嘘ばかりの国を作っているとは思いませんか?