神話学的性愛の見解について 4 | サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

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 房中術における性愛の心は、果たしてエロスかアガペーか、という問いに答えるならば、それは間違いなくアガペーです。

 未分化であるとは思うのですが、割合で言うなら中核はアガペー。

 相手に愛着を持ってはいけないし、一般的に言う射精もしてはいけません。

 ではその時、修行者が性交をしている対象者はなんなのかというと、これはパートナーの中に宿る気や仏性、法、道などと呼ばれる物です。

 先に、アジアにおいてはすべての物にそれらが宿ると書きました。

 房中術においては、相手の肉体を通して、その中に存在するそれら世界の真理と繋がることが目的となっています。

 この時、相手は器であって、相手そのものの個人性はあまり関係がありません。

 相手の身体を、この世に顕在している一つの「神」の象徴としてまぐわう。

 インドで言うアヴァターラ(化身)の考え方ですね。

 エロスと言うのは、相手を尊重する必要がありません。

 したければしても良いのでしょうが、それとは別の性的な欲求そのものです。

 アガペーによる性交には、相手への敬意、畏れ、あるいは信仰と呼んでよい物がある。

 私の中にずっとあったのもこの思考だったのだといまではわかります。

 愛も愛する者への思いも、すべては世界の奇跡であり、この世の善きものすべてでした。

 それは、アガペー、神の愛です。

 アモールと言うのは、相手の近代的自我を愛すると言うことです。

 相手の個性、倫理面における良し悪しを問わない人となりそのものを愛するということです。

 そこに、形而上的な神の愛を挟まない。

 ただ等身大の相手の存在を愛し、欲情する。

 このことを知ったとき、気が遠くなるような思いに至りました。

 果たして、私にそのようなことが可能だろうか。

 そして、それこそが私が求めていた愛の姿だったのではあるまいか。

 自分の分身としてのもう一人の自分でもなく、地上の奇跡でも運命の相手でもない、そのような神話的概念を含まない、ただただ人としての人格への愛と欲情。

 それは私には難しい。

 私はこのような生き方をしているから、すべてに法や仏性を見てしまう。

 それが行者の生き方だからです。

 愛する人に見とれるときは、どうしても「地上の奇跡だ」と思うし「愛の化身だ」感じるし「私の天使」や「私の女神」のように抽象化してしまう。

 等身大の人間としての相手を離れて。

 近代西洋文学で描かれていた「聖女でも娼婦でもない女性とのロマンス」という物がなぜ追及されていたのかがようやくわかりました。

 それは、果てしなく至難の精神の在り方だからです。

 もしそのアモールが可能となったとき、その人はまた、自分の中のアガペーからも解放されていることでしょう。

 つまり、自我からの解脱です。

 聖性も道理性も持たない、等身大の自己を獲得したことになる。

 これは、果てしないことではありますまいか。 

 この時人は、既存の神話や宗教を離れて、自分自身の価値観の中での神へと解脱したことになる。そういうことではないでしょうか。

 深い……。

 これは、余人には誤解しかもたらさないためにタントラ(秘法)とされたことも理解に難くありません。