いま再び、エスクリマの過去と未来について 5 | サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

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気持ちよく生きるためのライフスタイルとしての南派拳法(カンフー)蔡李佛拳とエスクリマ(フィリピン武術)ラプンティ・アルニス・デ・アバニコを横浜、湘南、都内で練習しています。オンライン・レッスン一か月@10000で行っております。
連絡southmartial@yahoo.co.jp

 私が学んだラプンティ・アルニスは、元々セブ島のカブルナイ家に伝わる土着系剣術だったようです。

 これが、中興の祖であるフィルモコン・カブルナイ先生によってアップデートをされたのは、どうもドセ・パレスの時代の前後であるようです。

 ドセ・パレスの人々が復興活動をしたのと同じように、フィルモコン先生もセブ島各地や、ネグロス島などに渡り、剣士の家を巡ったそうです。

 フィルモコン先生の職業は刀鍛冶だったそうですから、これは生活しながら修行が出来るよいライフスタイルです。

 そのようにして、様々な剣士から学んだフィルモコン先生は、修行の旅を終えたのち、ドセ・パレスの活動に参加します。

 ここで面白いのが、カニエテ家の勢力が強くなるにつれて、喧嘩をして別れたり、バリンタワク側と技術交流をしたりということを繰り返していたということなのですね。

 おそらくは、とにかく剣術の修行が好きな人だったのでしょう。

 バハドの時代が終わった70年代になって、マニラの中華街、トンド(東都)の洪門拳士であるジョニー・チューテン師とまた技術交流をします。

 ジョニー・チューテン師自身もかなり研究熱心な方で、トンドに住んでいたラオ・キム(劉錦)師父から蔡李佛拳を学びながら、バリンタワク系のアルニスを学んでいました。

 彼と出会い、フィルモコン先生は蔡李佛拳の要素を取り入れたアルニスを確立し、これをラプンティ・アルニス・デ・アバニコと名付けます。

 70年代まではこれは単にエスクリマと呼ばれていたり、ドセ・パレスでもカブルナイ家のエスクリマ、と呼ばれていたようです。

 また、セブでいくつかのアルニスのマスターが集まって、アバニコ・アルニスが確立されたことがあったとも言いますから、その折に参加していたかもしれません。

 このような経緯を経て、ラプンティ・アルニスと言うのは非常に独特で多面的なエスクリマとなりました。

 カリキュラムのフェーズにはその変遷の歴史が感じられる部分もあります。

 ドセ・パレス、バリンタワクのバハド由来であろうディスアームやジョイントロックがありながら「こういうのは実戦では使い物にならないからやるなよ」などと言って教えてくれる私のグランド・マスタルは、陸軍所属の軍人でした。

 バハドのエスクリマの技術に走るよりも、ゲリラ戦のエスクリマとしてのひたすら武器でぶっ叩くということを重視しています。

 蔡李佛拳からはテイクダウンやスタンス、戦術を明確に取り入れています。

 また、フェーズの奥にあるソードの段階では、全体の仕様が変わって急にオールド・スクールの剣術エスクリマの色が濃厚に出てきます。

 この段階になると基本のテンプレートも変わり、古典の技術を学ぶことができます。

 さらに奥にあるマステラル(マスター向けの奥伝)ではソードと短剣の二刀流であるエスパダ・イ・ダガを学びますが、これはエスクリマにおいて最も古いスタイルだと言われています。

 世界中の海戦武術においては、このような二刀流が一般的だったのです。

 これらの古い時代の系統の痕跡として、サヤウという型稽古が中心になるところも独特です。

 このスタイルは、カコイ・カニエテ先生が捨てたドセ・パレスの技術を継承しているサン・ミゲル・エスクリマでも行われているのですが、これはおそらく多くの外国人が持つフィリピン武術のイメージに反した物でしょう。

 サン・ミゲル・エスクリマの開祖であるモモイ・カニエテ先生(カコイ先生の兄)は、同じく伝統主義者でもあるフィルモコン・カブルナイ先生と共に練習をして、このエスパダ・イ・ダガのカリキュラムを確立したと言います。

 私が学んだマニラの軍人マスタルが教えてくれた環境では、最古典のエスパダ・イ・ダガ、セブのアバニコ・アルニス、バハドのテクニック、ゲリラ戦のエスクリマと、フィリピンの歴史そのもののような内容を学ぶことが出来ました。

 これは、海賊武術の研究者として非常にありがたい派に巡り合った奇跡だといまだに思っています。

 

 

                                                                      つづく