祭について 4 | サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ

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気持ちよく生きるためのライフスタイルとしての南派拳法(カンフー)蔡李佛拳とエスクリマ(フィリピン武術)ラプンティ・アルニス・デ・アバニコを横浜、湘南、都内で練習しています。オンライン・レッスン一か月@10000で行っております。
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 ここでようやくお話は祭に向かいます。

 いつもお世話になっている友人の地元には、この数十年で作られたお祭りがあるそうです。

 もともと地域おこしの意図で作られたということを前提としているお祭りなのだそうですが、それより前からその土地に住んでいた彼としては、そんなねつ造された祭に乗る意味が分からないということでだいぶ鼻白んでいた様子でした。

 ねつ造、とくればいつも読んでくださってる皆さんには私がどういう気持ちになるかはお察しいただけるかもしれません。

 基本的に、私は伝統武術の世界にだけ住んでいる人間なので、ねつ造された武術や近年創作された武術には一切興味がありません。

 どころかむしろ、正統な伝統的武術のためには有害な存在であるとさえ思っている。

 なにやら、太極拳と忍術を混ぜて新流派を作ったというような話を目にすると、それは一体どこの派の何世の伝人がしっかり真伝を授かってどれくらいニンジャとしてのキャリアを積んでからどんな必要性があって混ぜ合わせたんだね? としか思えません。

 しかるべき門に身を置いて正しく内容を授けられるレベルにまで至っていれば、足りない物は本来ないはずなので怪しげな切り張りをしてミックス流派を創作する必要はないわけでしょう。

 それは完成されたレベルまで体得できなかったからそういう個人の工夫が必要になってしまっただけでしょう。

 落第生が適当にでっち上げた赤点レベルの自己流なんじゃねーの? とすら思ってしまう。

 そのような不完全なミックスをされた存在が、あたかも伝統武術とはこういうものであるというように世間の価値観に伝わってゆくのは、非常に誤った情報と偏見をもたらすことになる気がしてしかたがありません。

 おそらくは私の友人にとっては、昨日今日作られた地元のお祭りが、自分の生まれ育った土地とは何の関係もないものであることや、それが地元を代表する文化だとして外部に伝わっていっていることが違和感があったのでしょう。

 このようなことは、全国的に起きています。

 あっちでもこっちでもよさこいのイベントが作られていっている。

 浅草のサンバや高円寺の阿波踊りも初めはそんな感じだったのでしょうか。

 しかし、考えてみれば祭とはそもがそのような物であるのではないかという気がしてきました。

 ブラジルではBON DANCEという日本の盆踊りとは似ても似つかない、アニメソングでレイヴをするような物が隆盛しているといいます。

 また、ハロウィンやクリスマスだって、考えれば似たようなものです。

 これは日本でだけそうだと言う訳ではない。

 そもそもがケルトのドルイド教かなんかのお祭りだったものが縁もゆかりもないキリスト教徒たちによって行われるようになって久しいのですから、世界的に祭とはなんだかでっちあげられる物なのではないでしょうか。

 だとすると興味が向かうのは、そのようにしても祭を行いたいという人間の欲求についてです。

 おそらくは、人間とは祭をしたがる習性をもつ生き物なのではないでしょうか。

 日本でも昔話題になった「バトル・ロワイヤル」や、その日一日だけはいかなるどんな犯罪を犯しても許されるというB級映画「パージ」などで描かれているのも、すなわち祭習性の結果がもたらした物ではなかったでしょうか。

 ペナント・レースがそうでしょうし、フットボールもそうでしょう。

 もっと個人的なところで言えば、月に一度の旅行や高級スイーツバイキングという祭を習慣としている方もいらっしゃるでしょう。

 このような習性で思い起こすのは、中国の小説「封神演義」です。

 そこに登場する不老不死のような仙人や妖怪たちは、長生きをしている過程で心のどこかに生まれた破壊衝動が蓄積されてきたので「それじゃいっちょ、みんなで殺し合いでもしよっか」と天下を二分する超常大戦争を繰り広げるのです。

 このような、陰陽が二分されてゆくなかでわずかにあまってゆく混沌のような物をどこかで解消することが、人間には必要なのであってもおかしくないように思うのです。

 そして、そのような祭においては、人命と言うのは常時を離れて優先順位のランクを引き下げられることとなります。

 生きてゆくことが大切であるという日常の価値観を離れることで、本当の意味での祭が成り立つという部分があるのではないでしょうか。

 暴走族の危険運転や、過度の飲酒、無意味なエクストリーム行為などはこのためであるように思います。

 ポル・ポト派の虐殺に関する記事を読んでいた時、ポル・ポトは自軍の兵士たちに「さぁ、血の祝祭を始めろ」と宣言してから大殺戮を行わせたと知りました。

 そのような負の側面、倫理の優先順位をも下げるということが祭の本質には含まれるのではないでしょうか。

 もう少し穏当なところで言えば、昔の山間部の盆踊りなどは乱交が許されたものであり、その結果、子種が結ばれにくかった夫婦にも子供が授かったりして集落の人口問題の解決に通じていたとも聞きます。

 そのような観点から見返すに、麻原受刑者の行ったこともまた、戦後日本の経済成長の行きついたところで先が見えなくなった社会における「祭」であったとも取れるのではないでしょうか。

 民族浄化やテロ行為などは、そのような祭を求める人の習性を操作した結果行われて来たように思えます。

 これは人類の習性である以上、否定出来ることではありません。

 世の中には、年に一度の祭だけを楽しみに生きているという人も沢山いると言います。

 私自身は、お酒もアルコールにも大騒ぎにも興味がない人間ですが、夏という季節は大好きなので、そこにやはり祭への欲求の片りんを見つけることが出来ます。

 祭というのは、責任から解放される瞬間です。

 日常の責任から離れてひと時の解放感を味わうことに通じるかもしれない。

 だとすると、仕事を離れて練習に行くということが祭であるという人もいるかもしれない。

 しかし、そこで責任から離れていると、おそらくはその流儀において認められて高いレベルの伝を与えられるということは難しいでしょう。

 責任感を放棄しても、自分の行いの責任というのは必ず存在します

 そして責任を放棄したがために、自分が想定をしていなかった形で支払いを差し押さえられるということは多々あるように思います。

 その、自分の支払いを管理して生きること、それが本当は自由ということではないでしょうか。

 少なくとも私はそのように思います

 そのために、武術を通して自分の生き方における陰陽の因果の調整、すなわち選択とその支払いの調整を行うことで、自由な選択の仕方を習性づけているように感じています

 つまりね、一時の欲求に囚われて両手離しで不正直なことにまい進していると、知らない間に雪だるま式に借金が積もってるよ、ということだと私は思うのです。

 セルフ・コントロールは、ライフ・スタイルを良い物にするために必ず必要であると私は思います。

 先に話した作家さんが言われた、孤独にかつ十全に自分の命を生きるというのは、そのようなことではありませんでしょうか。

 そのために、真実とたった一人で向き合い続ける時間をもつ武術と言う手段を私は用いています。