少し前に、洪門の武術について書きました。
主に洪拳について書いたのですが、今回はそこから派生した内容について書きたいと思います。
前回は、洪拳が清末ではなくて明代に創始されていたという説を取り上げていったのですが、その場合、一つ否定される創始説が出てきます。
洪拳が洪煕官という武術家によって編み出されたという説です。この洪煕官創始説では、まず彼が清の時代の人であることが引っかかります。
香港のある洪拳の師父は、テレビで洪煕官説を否定し、洪門の拳だと言う説を主張していました。
そちらが正しいとなるともう一つ、洪拳は南拳五祖から煕官が習った物だという説も否定されます。
そうすると、以前私が聞いた永春拳から洪拳が生まれたという説も否定されることになります。
と、言うのも、この説は五祖の一人である五枚師太という尼僧が永春拳の使い手であり、洪煕官は彼女に武術を学んだという説が否定されるからです。
永春拳、あるいは詠春拳とも言いますが、ここでは両者をあえて分けたいと思います。
というのも、大陸に残っている古い派を永春と言い、香港に渡った物を詠春と言うという説があるからです。
この場合、引き合いに出しているのは古伝の永春の方です。
永春拳は、福建省永春県という場所で生まれたともいい、初めは永春白鶴鶴拳と言われていたという説もあります。
また鶴です。
となるとこれが、福建鶴拳の一派であるとみてまず間違いはないでしょう。
しかし、一般の福建鶴拳と永春拳には大きな違いがあります。
それが独特のねばりつく橋法です。
実は、永春拳と洪拳の橋法は呼称も形状も同じです。
ここがこの二つの拳がつながっているという説の一つのポイントです。
しかし、その同じ形の橋法の使い方がそれぞれでまったく違います。
永春がくっつくのに対して、洪拳は相手の腕を叩き壊すように用いると言います。
となると、明らかに永春の橋法の方が独特であり、進化した物だと言えると思います。
そのあたりも含めて、やはりどうも洪煕官が永春より学んだのではなく、洪拳の橋法が永春に伝わったと考えた方が自然に感じます。
ねばりつく橋法と言うと、太極拳を彷彿される方も多いことでしょう。
この太極拳も、実は蛇鶴相闘、すなわち蛇と鶴の戦いよりインスパイアされて編み出されたと言う説があります。
永春拳の創始伝説と同じです。
では、その太極拳の創始者とは誰でしょう?
一般に言われる仮託では、張三豊という仙人だと言います。
この人物、少林で武術を学び、羅漢拳をベースに太極拳を作ったと言う話があります。
また羅漢拳です。
羅漢化鶴です。
驚いたことに鶴拳の南進とまったく同じアウトラインではありませんか。
となると実際に仙人に仮託された人物とはいったいどのような人(あるいは人たち)だったのでしょうか?
おそらくは、陳家溝の陳一族の人ではないかと思います。
中国武術研究家で太極拳で有名なK先生によると、陳家の拳法はそもそも典型的な少林長拳だったと言います。
それが、楊露禅への伝授をきっかけに、以後のいわゆる太極拳らしい太極拳が生まれていったといいます。
以前、その太極拳らしい太極拳の高名な先生に私の学んだある拳法の動作を見せたら「そりゃ陳式だ」と言われたことがありました。
金剛搗碓という動きのようです。
この動作、典型的な把の動作です。
つまり、ここまでは少林の把の暗の内勁が伝わっていたと考えることができます。
それが南進して行ったのが鶴拳の系譜だと私は唱えているのですが、どうやらこれは南派少林拳といわゆる内家拳を繋ぐ物である可能性が浮かんでまいりました。
もちろん、それが把であるなら、把の直系である形意拳は当然です。形意拳をねじったのが八卦だと言う説があります。
しかしどうも一番メジャーな太極拳とのつながりが見えなかったのですが、これでつながりました。
ちなみに、いわゆる内家拳と言う言葉自体も、元々そういう名前の拳法があり、その極意になぞらえて現代の内家三拳が借用を始めたのだとK先生は言っているのですが、その内家拳、資料によるとどうも福建系の短拳の類だと言います。
これは……福建鶴拳のルーツなのではないでしょうか。
だとすると、その橋法が永春白鶴拳から永春に至った可能性も見えてまいりました。