「マイケル・コリンズ」
(原題:Michael Collins)
1996年9月5日公開。
アイルランド独立戦争の運動家を描いた作品。
興行収入:$11,092,559。
ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受賞。
監督・脚本:ニール・ジョーダン
キャスト:
- マイケル・コリンズ - リーアム・ニーソン
- ハリー・ボランド - エイダン・クイン
- エイモン・デ・ヴァレラ - アラン・リックマン
- キティ・キアーナン - ジュリア・ロバーツ
- ネッド・ブロイ - スティーヴン・レイ
- ジョー・オライリー - イアン・ハート
- ソームズ - チャールズ・ダンス
- スミス - ショーン・マッギンレイ
- パトリック・ピアース - ジョン・ケニー
- リアム・トビン - ブレンダン・グリーソン
- カハル・ブルハ - ジェラルド・マクソーリー
- 暗殺者 - ジョナサン・リース=マイヤーズ
あらすじ:
1916年。
イギリスからの独立を目指したイースター蜂起の中でマイケル・コリンズ(リーアム・ニーソン)は中央郵便局でイギリス軍と交戦していた。
その中にエイモン・デ・ヴァレラ(アラン・リックマン)もいた。
捕らえられた首謀者達はキルメイナム刑務所で処刑され、蜂起は失敗に終わる。
刑期を終えたコリンズは、親友のハリー・ボランド(エイダン・クイン)と共に、ゲリラ戦で統治側である警察を悩ませ、リーダーとして頭角を現して行く。
抵抗活動で怪我をしたコリンズは、キティ(ジュリア・ロバーツ)に出会う。
ダブリン市警察のブロイ(スティーヴン・レイ)から内部情報を得て抵抗を続ける中、イギリスからソームズ(チャールズ・ダンス)が新たに派遣され、抵抗組織(IRA)への締め付けを強めて行く。
コリンズはカイロ・ギャングと通称されるMI5のスパイ網のメンバーを次々と暗殺していくが、クローク・パークでは警察部隊ブラック・アンド・タンズにより一般市民が無差別に殺される(血の日曜日事件)。
刑務所から助けられたデ・ヴァレラは、ボランドと共にアメリカ合衆国大統領に支援を求めに行く。
交渉は失敗に終わり、ゲリラ戦では政治的サポートが得られないと、通常戦でカスタム・ハウスを攻撃するが、攻撃は失敗し、IRA側に多くの犠牲が出る。
デ・ヴァレラに説得され、コリンズはイギリスとの交渉団に参加し、英愛条約が調印される。
1922年、英愛条約は議論の末、議会で批准されるが、条約の内容に同意できないデ・ヴァレラは議会を去り、ボランドもコリンズを離れる。
アイルランド自由国が誕生し、ダブリン城でイギリスからの主権の引継が行われる。
アイルランド総督に「君は7分遅刻だ」と咎められると「あなたたちは700年も待たせたのだから7分くらい待てるだろう」という。
国民投票では批准賛成が多数派を占めるが、これに不満を抱いた反対派は武装してフォー・コーツを占拠。
自由国軍はフォー・コーツに籠城する反対派IRAに向けて砲撃し(ダブリンの戦い)、内戦へと発展して行く。内戦では、共に戦って来たアイルランド人の両派に多大な犠牲が出る。
コリンズは内戦を終わらせるべく、デ・ヴァレラに会いに故郷のコークに向かう。
キティはダブリンでコリンズの帰りを待っていた。
コメント:
アイルランドの独立運動家であるマイケル・コリンズの生涯を描いている。
2005年時点でアイルランド本国では第2位、アイルランド制作の映画に限ると第1位の興行収入を記録している。
主演はリーアム・ニーソン、監督は『クライング・ゲーム』のニール・ジョーダン。
ヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞を受賞した。
アイルランド独立運動の英雄マイケル・コリンズ(1890~1922)の半生を描いた歴史ドラマ。
英国とアイルランド間に横たわる怨嗟の歴史の1ページを独立運動の指導者のひとりであるコリンズの目を通して描いた歴史映画である。
ニール・ジョーダンは、さすがにアイルランド出身の監督らしく祖国の英雄、コリンズ(リーアム・ニーソン)の勇姿を熱量を込めてフィルムに刻んでいる。
英国からの独立を目論んだ1916年の武装蜂起から説き起こし、内戦によりその短い命を落とすまでの後半生をテンポよくかつサスペンスフルに見せる。
とくに前半から中盤にかけてのテロ活動の描写などギャング映画での報復シーンのようなサスペンス描写の連続であり見ごたえある。
歴史映画、政治映画だけれど暴力に暴力で対峙する構図はまさにギャング映画の雰囲気に近い。
警察内部のスパイ(スティーヴン・レイ)を使って情報を引き出すコリンズ。
情報漏れを察知した英国軍の報復も凄まじい。
英国との条約をなんとか取り付けてからの後半に入ると、その条約を巡って今度はアイルランド内部での対立抗争へと転じていく。
かつての同志が今度は敵となるという流れもギャング映画を思わせる。
コリンズの最後を描くシークェンスは、会合場所へと向かうコリンズの一向と恋人キティ(ジュリア・ロバーツ)の幸せそうな情景をカットバックで見せながら大団円へと繋げていく。
コッポラが「ゴッド・ファーザー」で印象的に使った手法を思い出させる。
総じて歴史映画というよりノワールふうな犯罪映画を観ているような錯覚を抱かせる。
それもアイルランドの黒歴史のせいかもしれない。力の篭った映画だ。
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さて、アイルランドの歴史上、この作品はどういう位置になるのだろうか。
アイルランドは大ブリテン島の西側にある大きな島。
長くイングランドの支配を受け、18世紀以降、自治要求がたかまり、イギリスにとっての「アイルランド問題」が深刻化し、独立戦争の過程で1920年に北アイルランドはイギリス領、南部にはアイルランド自由国が分離した。
北アイルランドが分離したアイルランド自由国は自治か完全独立かで内紛が続き、国号も1937年のエールを経て、1949年にアイルランド共和国となった。
北アイルランドはイギリスの一部として続くが、プロテスタント住民によるカトリック教徒差別から対立が激化し、北アイルランド紛争が長期化している。
アイルランドは、古来より、ケルト系文化とカトリック信仰という独自の文化と、イングランド、スコットランド、ウェールズの大ブリテン島とは異なる歴史を有し、ローマの支配も受けず、ゲルマン民族の移動も直接は及ばなかった。
11世紀以降、ヴァイキングの侵攻を受け、12世紀からはアングロ=サクソンの移住が始まり、人種・文化の混合が進んだ。
イングランドからの侵攻 1171年にはイングランドのプランタジネット朝ヘンリ2世の支配が及び、封建制が導入された。
さらにヘンリ8世以降、イギリスの宗教革命によって生まれたプロテスタントが移住するようになり、カトリック住民との宗教的対立が始まった。
特にピューリタン革命の時期の1649年にクロムウェルによる征服が行われ、アイルランドの植民地化が始まった。名誉革命の時にはウィリアム3世が侵攻してカトリック勢力を破り、プロテスタント支配が確定した。
フランス革命の影響などでアイルランドに民族運動が起きると、イギリスは1801年にアイルランドを併合して国号を「大ブリテン及びアイルランド連合王国」とした。
19世紀には自由主義の影響を受けてカトリック教徒による自治の要求が強まり、アイルランド問題はイギリスにとって最大の課題となった。
1829年にはオコンネルの活動でカトリック教徒解放法が成立したが、1845年から深刻なジャガイモ飢饉に襲われ、多くのアイルランド人がアメリカ新大陸などに移民していった。
1870年代にはアイルランド国民党の運動によってアイルランド土地法が制定され、小作人の権利の向上が図られたが、要求は次に自治権の獲得に向いていった。
自由党グラッドストン政府はアイルランド自治法案をたびたび議会に諮ったが上院の拒否で不成立が続いた。
ようやく20世紀に入ってアイルランド自治法が成立したが、第一次世界大戦によって実施が延期された。
それに不満な独立派が1916年にイースター蜂起といわれる武装蜂起を行い、それは鎮圧されたが、それ以降、シン=フェイン党を中心とする独立運動が激化し、1919年にアイルランド共和国の独立を宣言し、アイルランド共和国軍(IRA)による戦闘を開始した。
このイギリス=アイルランド戦争が長期化する中、1920年、イギリスのロイド=ジョージ内閣はアイルランド統治法(分断法とも言う)を制定、北アイルランドはイギリス領とし、それ以外に高度な自治権を与えて自治領とすることを決定、アイルランドは分断されることとなった。
1921年、イギリス=アイルランド条約が締結されて戦闘は終わり、シン=フェイン党は自治領となることを認め26州がアイルランド自由国として独立したが、完全なイギリスからの分離を主張するグループとの間で内戦へと転化していった。
イギリスは「大ブリテン及び北アイルランド連合王国」と称し、北アイルランドはその一部となった。
アイルランド自由国では内戦が収束した後、主導権を握ったデ=ヴァレラは、1937年に君主制を否定し、国号をアイルランド語によるエールに変更した。
第二次世界大戦ではエールは中立を守り、戦後の1949年にイギリス連邦から離脱すると共に国号を正式にアイルランド共和国とした。こ
うしてイギリスとの関係をすべて断って完全か主権国家となったアイルランド共和国は、貧困と農業主体の遅れを克服するために工業化を進め、次第に経済成長を実現させ、軍事同盟であるNATOには加盟せず、ヨーロッパの経済統合には同調して1973年にECに加盟した。
アイルランド問題が大きく動いたのは第一次世界大戦をきっかけとしていた。
大戦勃発直後の1914年9月にイギリス議会でようやくアイルランド自治法が成立したが、第一次世界大戦が勃発したという理由で実施が延期されることなった。
アイルランドでは延期に反発した急進派が1916年2月の復活祭の日に武装蜂起(イースター蜂起)し、ダブリンで激しい市街戦となったが、イギリス政府は軍隊を派遣して鎮圧した。
その際、派遣軍は蜂起首謀者パトリック=ピアスなど16人を逮捕して裁判にもかけずに処刑、他にも多数を処刑したことで、非難が高まった。
この蜂起は、アイルランド自由主義同盟(IRB)という急進派が起こしたもので、すでに1905年に結成されていたアイルランドの民族運動組織であるシン=フェイン党は、組織としてはこの蜂起に加わっていなかったが、この蜂起でのイギリス政府の過剰な弾圧はアイルランド人の憎しみを買い、独立を訴えるシン=フェイン党への支持が高まった。
1918年に総選挙の結果、アイルランド独立を主張するシン=フェイン党が民衆の支持を受けて大勝した。
イースター蜂起に加わって生き残ったデ=ヴァレラらはロンドンの本国の議会に出席することを拒否し、1919年にダブリンに独自のアイルランド共和国議会を開設して、独立宣言を発した。
大統領はデ=ヴァレラが就任、シン=フェイン党を創立したアーサー=グリフィス、IRBの軍事部門アイルランド義勇軍(後のIRA)を率いるマイケル=コリンズらも閣僚となった。
イギリス本国のロイド=ジョージ内閣はそれを認めず、シン=フェイン党の解散を命じ、党員を逮捕、弾圧を強めたため、1919年4月以降、シン=フェイン党はゲリラ闘争、テロを開始、アイルランド独立戦争(イギリス=アイルランド戦争)が始まった。
アイルランド側はマイケル=コリンズが義勇兵を募り、アイルランド共和国軍=IRAを組織した。
ロイド=ジョージはその一方、妥協を図るべく、1920年にアイルランド統治法(分断法、分離法とも言われる)を公布したが、それは北アイルランド(アルスター地方)と南アイルランドを分離し、それぞれに程度の違う自治権を与えるというものだった。
この提案を北アイルランドは受け入れたものの、シン=フェイン党は拒否、それをうけてイギリス政府は本格的な弾圧に乗り出し、軍隊を派遣した。
この世界大戦からの復員兵からなる軍隊はその制服から「ブラック・アンド・タンズ」と言われ、かつてのクロムウェルのアイルランド侵略を思い出させる残虐行為を行い、アイルランド民衆の強い憎しみを生むこととなった。
イギリス=アイルランド戦争は長期化し、アイルランド民衆は戦いに疲弊、イギリス国内や国際世論も次第に戦争反対に傾いたため、1921年4月、両軍は停戦に合意、交渉に入った。
交渉はロイド=ジョージ挙国一致内閣の提示した北部分離案を軸に進められた。
それはプロテスタントの多い北アイルランド(アルスター地方)を、カトリックの多いアイルランドから分離させた上で、残りの南アイルランドを自治領とすることを認めるというものであった。
予備交渉を行った大統領デ=ヴァレラからロンドンでの最終交渉を任されたグリフィスやマイケル=コリンズは、「共和国」としての独立という本来の目的は達することは出来ないが、戦争を停止し、将来の共和国独立の第一歩とするためには妥協が必要と判断し、1921年12月6日にイギリス=アイルランド条約に調印、アイルランド自由国が成立することとなった。
この時イギリスにも承認されて成立したのは「アイルランド自由国 Irish Free State」であり、シン=フェイン党がかねて称していた「アイルランド共和国 Irish Republic」ではなかった。
イギリスがアイルランド側と交渉する際に最もこだわったのがこの国名問題だったようだが、これもロイド=ジョージが巧妙にデ=ヴァレラを説得した結果だったという。
ロイド=ジョージはデ=ヴァレラから republic のアイルランド語訳には poblacht と saorstat があり、後者を直訳すれば free state にもなるとの説明を引き出した。
ロイド=ジョージは自らもウェールズ人である点を、アイルランド人のデ=ヴァレラにアピールし、独立アイルランドの国号には英語ではなくアイルランド語を用いるよう誘導した。
そこで saorstat を国号とすることで両者が妥協したことにより、その英訳はアイルランド自由国となり、結果的にロイド=ジョージはアイルランドの国号から republic を排除することに成功したのである。
この案を巡ってシン=フェイン党は分裂した。
条約交渉に当たったコリンズ、グリフィスらは分離・自治領を受け入れることを主張、それに対してデ=ヴァレラらはあくまでアイルランド全島の完全独立と大英帝国からの分離(王政の否定)を主張した。
アイルランド議会で条約は賛成64,反対57の7票差で承認され、国民投票でも条約承認派が上まわったので、条約は批准された。
1922年1月16日、グリフィス、コリンズらを核として正式に発足したアイルランド自由国とは、独自の議会と政府をもつが、あくまでイギリス帝国の一部の自治領=ドミニオンのひとつであり、カナダやニュージーランド、オーストラリアなどと同じくイギリス国王に忠誠を誓い、その代理の総督が統治するというものだった。
北アイルランドはアイルランド自由国には加わらず、イギリス本国の一部として残った。
アイルランド自由国政府に対して分離したデ=ヴァレラら完全独立を主張する急進派はゲリラによる武装闘争を開始、内戦となった。
この内戦で自由国政府軍を率いたマイケル=コリンズは殺害され、その他かつての独立の闘士同士が殺し合う、悲惨な戦いとなった。
このあたりについて、この映画「マイケル・コリンズ」が詳しく描いていると、歴史家に評価されているようだ。