「クレオパトラ」
(原題:Cleopatra)
1963年6月12日公開。
クレオ・パトラがローマのシーザーもアントニーも色香で惑わす。
興行収入:$119,800,000。
受賞歴:
第36回アカデミー賞
- 作品賞 - ノミネート
- 主演男優賞(レックス・ハリソン)
- 編集賞 - ノミネート
- 音響効果賞 - ノミネート
- 作曲賞 - ノミネート
- 撮影賞 - 受賞
- 美術賞 - 受賞
- 衣裳デザイン賞 - 受賞
- 視覚効果賞 - 受賞
脚本:ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ、シドニー・バックマン、ラナルド・マクドゥガル
監督:ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ
キャスト:
クレオパトラ:エリザベス・テイラー
シーザー:レックス・ハリソン
ブルータス:ケネス・ヘイグ
アントニー:リチャード・バートン
あらすじ:
紀元前48年。
エジプト王国は内乱につぐ内乱を重ね、新興ローマの覇勢に滅亡寸前のありさまだった。
幼いプトレマイオス14世をを立てる一派は、王の姉にあたる18歳のクレオパトラ(エリザベス・テイラー)を王宮から追放する。
そのころ、アレキサンドリアに遠征していたローマの将シーザー(レックス・ハリソン)は砂漠のスフィンクスで初めてクレオパトラに会い。その虜になってしまった。
シーザーはクレオパトラを伴い、アレキサンドリアに侵入、激しい戦闘を重ねて勝利を収め、クレオパトラは、エジプトの王に即位した。
やがてローマに凱旋したシーザーは、独裁者としての勇威を高めていった。
クレオパトラはそのシーザーを追ってローマへ渡った。
しかし、2人の喜びも束の間、シーザーはブルータス(ケネス・ヘイグ)達暗殺団の手にかかり、その短い生涯を閉じた。
クレオパトラは不穏なローマを逃れてエジプトに帰った。そして、3年の月日が流れた。
ローマの権力者となったアントニー(リチャード・バートン)は財政の窮乏を救うため、エジプトに活路を求めた。
アントニーを迎えたクレオパトラだったが、たちまち2人に恋の焔が燃え上がる。
アントニーがクレオパトラと結婚し、彼が死んだらエジプトの土になるという遺書を認めてローマ元老議員は激昂した。
そしてアントニーは、ローマとの戦いに敗れて、自ら命を絶つ。
捕らわれたクレオパトラは、「アントニーの側に葬って……」と遺書を書き、アスプ(毒蛇)を隠した果物篭に自らの手を差し入れたのだった。
コメント:
ハリウッドの黄金時代が閉じられた、即ちスタジオシステムが崩壊した50年代から60年代に観客を劇場に呼び戻すために作られた大作映画の一本。
本作により20世紀フォックスは破滅の危機に陥った。
製作を指揮したウォルター・ウェンジャーは『ジャンヌ・ダーク』の失敗に加え妻の不倫から発砲事件を起こすなど悲劇のプロデューサーとして転落したと世間で見られていたが、学生時代からのライフワークとして構想を温めていたクレオパトラの映画で復活を図ろうとしていた。
ハリウッドきっての知性派といわれたジョーゼフ・L・マンキーウィッツが監督と脚本を兼務。製作開始は1960年。
撮影は初めはロンドンで、後にローマ近郊のチネチッタで撮影された。
製作にあたっては、100万ドルという破格の報酬で契約した主役のエリザベス・テイラーの度重なる病気、初期のロケ地選択の失敗によるセットの造り直しで撮影が遅れに遅れ、さらに当初監督だったルーベン・マムーリアンをはじめとして、重要な配役が変更になる(当初シーザー役はピーター・フィンチ、アントニー役はスティーヴン・ボイドで撮影開始)という不手際にも見舞われ、その度にシーンの撮り直しを強いられた。
また共演のテイラーとリチャード・バートンの不倫も取りざたされ大スキャンダルとなった。
最終的には製作費は4400万ドル(現貨換算で3億ドル以上)という空前の巨額にまで膨れ上がり、製作会社の20世紀フォックスの経営を危機的状況にまで陥れた。経営危機に際して、一旦は会社から追い出していたダリル・F・ザナックを呼び戻すしか道はなかった。
『シーザーとクレオパトラ』と『アントニーとクレオパトラ』の前編後編2本立てで計6時間という当初構想が、作品としては長過ぎて興行の妨げになること、また当時一大スキャンダルとなっていたテイラーとバートンの登場する『アントニーとクレオパトラ』の部分が後出しになることは時機を逸するという考えから、マンキーウィッツに映画を1本にまとめるよう指示した。
これにより映画は1本立て5時間20分となったがザナックは満足せず、さらなる大々的なカットが行われた。
最早ウェンジャーはクレオパトラに手を出せず、花道を飾るどころかミソをつける格好になってしまった。
映画は製作開始から4年を経た1963年6月にようやくプレミア上映にこぎつけた。この際の上映時間は4時間5分だったが、一般公開版はさらに3時間14分に短縮された。
そのため場面の繋がりが不明瞭な箇所や重要人物の死を描いた箇所が丸ごと欠落するなどといった、編集上の問題にも見舞われることになった。
『クレオパトラ』は同年の北米興行収益でトップを記録する5780万ドルを、世界では1億1980万ドルを叩きだし、1963年の世界興行収入では1位となったものの、20世紀フォックスの取り分は製作費4400万ドルの半分強2600万ドルに過ぎず、ビバリーヒルズに構えていた広大な撮影所を売却するなど事業的には社運を傾けるほどの大失敗作となった。
マスコミや映画批評家らにはゴシップ先行の作品とそっぽを向かれる結果となり「映画史上空前の失敗作」などと皮肉られさえもした。
20世紀フォックスは2年後に公開された『サウンド・オブ・ミュージック』が当初の予想を遥かに上回る歴史的大ヒットとなったため奇跡的にこの財務危機を乗り切っている。
この映画は、女の色香の怖さを最大限に表現している歴史ドラマである。
絶世の美女、エジプトのクレオパトラを熱演したエリザベス・テイラーの妖艶さが半端ない。
自らも不倫の女王として映画界に君臨したこの大女優らしい作品となっている。
当時30歳だった。
(テイラーのヌード)
思う存分金をかけただけあって、きらびやかな衣装やメイクや小道具をはじめ、観ているだけでワクワクするような壮大なセットや、エキストラを動員したスケールの大きなモブシーンは大作映画ならではの醍醐味がある。
そんな画面いっぱいに広がるスペクタクルな情景描写とともに、物語に鮮やかな彩りをもたらすE・テイラーの爛熟した美しさが楽しめるオーソドックスな歴史劇になっている。
この映画は、YouTubeで全編無料視聴可能:
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さて、この映画の物語はどこまで史実なのだろうか。
クレオパトラは、前1世紀中ごろのプトレマイオス朝エジプトの女王で、正式にはクレオパトラ7世という。
プトレマイオス朝はヘレニズム国家であるから、クレオパトラはエジプト人ではなく、マケドニア系のギリシア人。
プトレマイオス朝エジプトはローマの勢力が東地中海におよぶなか、ヘレニズム諸国の一つとして存続を維持していたが、次第にその圧力に苦しむようになっていた。
クレオパトラは、ローマの有力者の争いを利用してその存続を図ったが、カエサルやアントニウスとの過度な結びつきは、かえってローマにエジプト征服の口実を与えることになり、プトレマイオス朝の滅亡という事態を招くこととなった。
ローマでは、第1回三頭政治が崩れ、カエサル(シーザー)は有力な敵対者ポンペイウスをローマから追い出した。
前48年、ファルサロスの戦いで敗れたポンペイウスはさらにエジプトを目指したが、アレクサンドリア(エジプト)上陸を前にして、プトレマイオス13世の配下に謀殺されてしまった。
当時、プトレマイオス朝では、プトレマイオス13世とその姉のクレオパトラ7世との間に対立が生じていた。
プトレマイオス13世が幼少であることにつけ込んだ宦官や王の教師たちなどの廷臣が実権を握ったことに対し、姉のクレオパトラが反発したが、かえって追放状態に置かれていた。
廷臣グループはポンペイウスを謀殺してカエサルの歓心を買おうとしたのだったが、10月にアレクサンドリアに上陸したカエサルは好敵手ポンペイウスをだまし討ちにした廷臣たちに不信を感じた。
そこに廷臣の目を盗んだクレオパトラがカエサルとの密会に成功、カエサルを見事に味方にしてしまった。
クレオパトラが絨毯にくるまって廷臣の目を欺し、カエサルの前に現れ、たちまちその心を虜にしてしまった、という話はシェークスピアの芝居やエリザベス=テーラーの演じた映画、はたまたブノア=メシャンの評伝でも描かれて、有名なシーンだが、プルタルコスではごく簡単にこんな風に伝えている。
そこでクレオパトラは、腹心のなかからシシリーの人アポロドロスのひとりだけを伴って小舟に乗り込んで、あたりが暗くなったころ王宮に舟をつけた。しかも、他に人目を忍ぶ手立てもなかったので、寝具袋にもぐりこんでその身を長くのばし、アポロドロスがその袋を革紐でしばって、戸口からカエサルのもとに運び入れた。カエサルがこの女性の虜になってしまったのは、蠱惑的な姿であらわれるというクレオパトラのこのまず第一の術策のためであったといわれている。
カエサルがエジプトにいる間に最も人々を驚かしたのが、女王クレオパトラとともにナイル川巡幸を行ったことであった。
二人を乗せた船は豪勢をきわめ、約400隻の船を引き連れた「浮かぶ宮殿」さながらにて上ナイルの古都テーベや、カルナック神殿、ルクソールなどのファラオの栄華を目の当たりにしてアスワンの第一瀑布まで遡った。
シーザーとクレオパトラは絹の長椅子に屈託なく身を横たえ、緋色の掛布で陽射しをさえぎり、酒杯を傾けながら涼をとったが、酌人はすぐに砕き氷と香しい飲物を盃に満たしてくれていた。
その間に、王室の船は竪琴の音と漕ぎ手の唄にゆられながら、旅を続けた。男女の神官たちの行列がいくつも神殿から出てきて、女王に礼拝を捧げたいと近くまでやってきた。クレオパトラはアレクサンドリアでこそ笑いを絶やさない、快活なマケドニアのお姫様にすぎなかったが、ここではかのイシスの神の化身だったからである。……どの停泊地でも神殿の祭司たちがやってきて、女王の前にひれ伏し、いと高き神のみ恵みを頭上にふりかけ給えとお願い申し上げた。
かくして船旅は町から町へ、祭殿から祭殿へと、神々の結婚をとり行うのにふさわしい燃えるような熱気のうちに、ゆっくりと、また荘重に進んでいった。
ブノア・メシャンは『クレオパトラ』で、このナイルの船旅はクレオパトラにとってカエサルの愛をつなぎ止めておくための計画であったが、もうひとつの意味するものは、「共和政のこの独裁者を、東洋の神政権の宗儀と威容に開眼させることだった」と言っている。
クレオパトラは、カエサリオンが生まれた後、かつてカエサルと共に参拝したテーベの近郊デンデラにハトホル神殿を建て、神々にカエサリオンをエジプトの王と認めて貰おうと、その壁面に自らとカエサリオンの姿をレリーフに描かせた。
今も残るデンデラの神殿に、はかなく消えたクレオパトラの夢が描かれている。
それはカエサルの後継者であると同時に将来のファラオであるカエサリオンが、やがてその双方、つまり世界帝国に君臨し、自らはその国母となる……という壮大な夢であった。
カエサルのアレクサンドリアでのクレオパトラとの生活は9ヶ月に及んだ。
彼はいつまでも続けたいと思ったであろうが、その留守中のローマでは従軍の報酬をまだ受けとっていない兵士の不満が強まり、カエサルへの非難が高まっていた。
また各地のポンペイウス派の残党の動きが再び強くなっていた。
さすがにカエサルはローマへの帰還の声に応えて出発しなければならなくなった。
前47年6月、嘆き悲しむクレオパトラをあとに、カエサルは小アジアのポントス王などを討ってローマにもどり、さらに北アフリカのポンペイウス派の残党を打ち破って、翌年ローマで凱旋式を挙行、そのとき約束通り、クレオパトラをローマに呼んだ。
しかし、正妻のカルプルニアがいるのでティベル川の河畔に屋敷を与えて住まわせた。
前44年、カエサルが暗殺されると、クレオパトラは自らも暴徒に襲われる危険を感じ、ただちにローマを離れ、アレクサンドリアに戻った。
カエサリオンを共同統治者としてエジプトを統治したが、その権力は不安定だった。
カエサル死後、その部将アントニウスは、カエサルの養子オクタウィアヌスと激しく権力を争うなかで、パルティア遠征を成功させて名声を高めようとした。
パルティアとの戦いを有利に進めるため、プトレマイオス朝エジプトの協力を得ようとして、前41年、小アジアのキリキアのタルソスで女王クレオパトラと会見した。
クレオパトラはあらたな保護者としようと、アントニウスを誘惑し、その意の通りに彼を操ることに成功した。
前37年秋、パルティア遠征に向かうアントニウスは、シリアのアンティオキアでクレオパトラと協定を結び、正式に結婚し、全東方のアウトクラトル(絶対支配者)と称することなどを約束、翌年、パルティア遠征を開始した。
クレオパトラも同行したが、アルメニア国境で妊娠していることに気づき、アレクサンドリアに戻った。
前35~34年、アントニウス軍はアルメニア攻略には成功し、続いてパルティアとの戦いにいどんだアントニウスだったが、その激しい抵抗に遭い、命からがらシリアに逃れてクレオパトラに助けられてアレクサンドリアに逃れる始末だった。
アントニウスがアレクサンドリアでのクレオパトラとの生活に熱中する間、ローマではオクタウィアヌスが次第に有力となっていった。
クレオパトラはカエサルの養子であるオクタウィアヌスが権力を握れば、我が子カエサリオンの立場は悪くなると考え、アントニウスに迫ってその妻オクタウィア(オクタウィアヌスの姉)と離婚させた。
アントニウスとの間には、一組の双子とひとりの女の子の3人の子をもうけた。
アントニウスにオクタウィアヌスとの決戦をけしかけたが、なかなか動かなかった。そうするうち、前34年にアントニウスが東方の属州の統治権をクレオパトラに与えたという報せがローマにはいると、オクタウィアヌスはアントニウスとクレオパトラを討伐する口実が得られたとして、海軍の派遣を決定した。アントニウスとクレオパトラはオクタウィアヌスのローマ軍を迎えるために本営を小アジアのエフェソスからギリシアのアテネ、さらにアドリア海に面したアクティウム近くに移した。こうして前31年、アクティウムの海戦が行われたが、機動力に勝るローマ海軍が、エジプト海軍を破り、アントニウス・クレオパトラ連合軍は敗北した。
アクティウムの海戦に敗れたアントニウスとクレオパトラは、別れ別れになってアレクサンドリアに戻った。
アントニウスはクレオパトラの裏切りを疑って自らの命を絶つ。
クレオパトラは、なんとかオクタウィアヌスに助命を願おうと誘惑したが、オクタウィアヌスはその誘いに応じず、彼女を監禁する。
クレオパトラはすでに41歳、もはやオクタウィアヌスを籠絡するのは無理とさとり、また生きて降伏すれば、ローマで見せしめとして引き回されることを恐れ、かねて用意していた毒蛇に胸を咬ませて自殺した(前30年)。
その死体はオクタウィアヌスによって、アントニウスと並んで埋葬された。
アクティウムの海戦でエジプトが敗れた前31年は、前331年のアレクサンドリアが建設されてからちょうど300年目にあたっていた。
これによって、プトレマイオス朝エジプトは滅亡し、ローマの地中海支配は完成した。
また、プトレマイオス朝エジプトの滅亡はヘレニズム時代の終わりも意味していた。
クレオパトラが、いざという時に備えて蛇の毒の効き目を実験していたことが、プルタルコスによって伝えられている。
クレオパトラはさまざまな致命的な効きめのある毒薬を集めて、そのひとつひとつの苦痛のない作用を試すために死刑囚に服用させた。
ところですぐに死ぬ毒薬は苦痛によって死に方が激しく、他方穏やかな毒薬は時間がかかるのを見て、毒をもつ動物が互いに咬み合うところを実験し、自分で観察した。
それを毎日行っているうちに、ほとんどすべての中で、アスピスという蛇が咬んだのは、痙攣や苦悶を引き起こさず、睡眠と顔の軽い発汗をもたらすだけで、感覚が容易に麻痺して減退し、あたかも熟睡している人の場合のように、呼び起して目覚めさせることが難しくなるということを発見した。
カエサル(シーザー)にとって、そしてローマ世界にとって、クレオパトラと邂逅したことには、どのような意味があるのだろうか。
フランスの評伝作家ブノア・メシャンは、次のよな三つの意味があったと説明している。<ブノア・メシャン/両角良彦訳『クレオパトラ――消え去りし夢』1979 みすず書房>
- カエサルと東方世界との媒介者であったこと。 ローマはその勢力を広げるにつれて、小アジア諸国やアルメニア、パルティアと接触した。しかしそれらはいずれも軍事的征服活動であった。カエサルははじめてプトレマイオス朝の女王クレオパトラとともにエジプトを統治した。これによって共和政ローマの統治者が、はじめて東洋的な、神権政治的な、東方世界を知ることとなった。その象徴が二人のナイル川巡幸であった。また、ローマにローマの神々と東方の神々の交わりが始まった。
- カエサルが築こうとしていたローマ帝国と、クレオパトラが後継者であると自負しているアレクサンドロス帝国とを媒介したこと。 カエサルは若いときからアレクサンドロスを追慕していた。彼の東洋への扉を開いてくれたクレオパトラは、大王の部将の中で最も勢威のあったプトレマイオスの子孫であった。ローマの覇権を握ったカエサルの次の目標は、アレクサンドロスに倣い、ペルシアの地、つまりパルティアを征服し、さらにインドを征服することにあった。
- カエサルと神々の間の絆としての役割を果たしたこと。 その昔、アレクサンドロス大王がアモン神殿の大神官から教えられたように、カエサルに君主制の神聖な性格を啓示してくれたのはクレオパトラだった。双方ともに、刺激はエジプトからもたらされており、まさしくカエサルがアレクサンドリアでの滞在から持ち帰った最大の収穫がこれである。プトレマイオス朝もギリシア人の王朝として初めはおのれを神として崇めさせることにためらっていたが、知らず知らずに、エジプトの宗教的習俗に同化していた。カエサルはローマの完全な支配権を握り、パルティアを征服した暁には「神」として崇められても不思議はないと考えた。
カエサルやアントニウスを惑わしたその美しさは、中国の唐の楊貴妃と並び称されている。また、17世紀フランスの数学者、物理学者にして哲学者であるパスカルが
「クレオパトラの鼻がもうすこし低かったら、大地の表面は変わっていただろう」
と『パンセ(瞑想録)』に書いたこともあまりにも有名である。
実際、クレオパトラが美女であったことは間違いないだろうが、プルタルコスなどを読むと、彼女は表面的な美貌でカエサルやアントニウスを虜にしたのではなく、その機転の利いた会話(あらゆる言葉に通じていた)や、人の心をとらえる話術などに優れていたようだ。また、行動力があり、判断が速く、時に軍隊の先頭に立っても兵士たちを鼓舞して導く力があった。昔見た映画『クレオパトラ』でのエリザベス=テイラーがあまりにも強烈だが、ブノワ=メシャンのような観点から考えてみると、世界史上の重要な意味のある女性であることが判る。
1996年、アレクサンドリア港内の海底から、クレオパトラが生きていたころのプトレマイオス朝エジプトの宮殿跡が発見された、というニュースが世界を駆け回った。
クレオパトラの宮殿がアレクサンドリアの港に突き出たロキアスという半島に築かれていたことは、クレオパトラ死後間もないころアレクサンドリアを訪れたギリシアの地理学者ストラボンの著作にも見えているが、それらは紀元後5世紀ごろの大地震で、旧市街とともに海中に没してしまった。
その後、アレクサンドリア港が商業港として発展したため、海底には長年のヘドロやコンクリートブロックが堆積し、その存在は幻となっていた。
世界的な水中考古学の研究技術が進んだ1980年代にフランスの海洋考古学者フランク=ゴッディオのチームが探索を開始し、ヘドロが溜まり、視界が悪い水深6mの海底に広さ260平方キロにわたって台地上の宮殿跡があることが判った。
次々と建材や彫像、柱材などが見つかり、研究の結果、前2~前1世紀のプトレマイオス朝時代の宮殿跡であることが判った。
クレオパトラの遺品と断定できる物は見つかっていないが、女王が起居していた宮殿であることは間違いないとされている。
だが、クレオパトラがローマという国のトップとこんなに公私ともに深い仲になったことが事実だったとすれば、エジプトとイタリアは今ももっと深い関係にあってもおかしくないと思われるが、その後の両国の関係はそんなことは全くなさそうだ。
どうも作られた話のような気がして仕方がないが。