筒井康隆の映画 大ヒット映画「時をかける少女」の原作者の作品をレビュー! | 人生・嵐も晴れもあり!

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筒井康隆という作家がいます。

 

『時をかける少女』などのSF小説で有名で、映画化作品も数多く残されている異色の文学者です。

 

まずは、この人の出自と経歴をたどります。

 

筒井 康隆
つつい やすたか
     筒井康隆氏「若くもないのに若さを誇示してもはじまらない」|NEWSポストセブン

 

誕生 1934年9月24日(89歳)
日本の旗 日本・大阪府大阪市
職業 小説家・劇作家・俳優
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 同志社大学文学部美学芸術学科
活動期間 1960年 -
ジャンル SF・スラップスティック・コメディ
代表作
  • 『時をかける少女』(1967年)
  • 『日本以外全部沈没』(1973年)
  • 『虚人たち』(1981年)
  • 『残像に口紅を』(1989年)
  • 『文学部唯野教授』(1990年)
  • 『朝のガスパール』(1992年)
  • 『パプリカ』(1993年)
  • 『わたしのグランパ』(1999年)
主な受賞歴
  • 星雲賞(日本長編部門)(1970年・1975年・1976年)
  • 星雲賞(日本短編部門)(1970年・1971年・1974年・1977年)
  • 泉鏡花文学賞(1981年)
  • 谷崎潤一郎賞(1987年)
  • 川端康成文学賞(1989年)
  • 日本SF大賞(1992年)
  • 芸術文化勲章(シュヴァリエ)(1997年)
  • 読売文学賞(2000年)
  • 紫綬褒章(2002年)
  • 菊池寛賞(2010年)
  • 毎日芸術賞(2017年)
  • レトロ星雲賞(日本短編部門)(2019年)
  • 星雲賞(ノンフィクション部門)(2019年)
  • 日本芸術院賞・恩賜賞(2022年)
デビュー作 『お助け』(1960年)

 

 

日本の小説家、劇作家、俳優。ホリプロ所属。身長166cm。兵庫県神戸市垂水区在住。日本芸術院会員。

大阪市に生まれた。天王寺動物園長だった父の影響を受け、幼い頃から博物的な世界に憧れを持つ。同志社大学に入学し、美学・美術史を専攻。

1965年に東京に転居し、本格的な作家活動を展開、第一短編集『東海道戦争』(1965年)を刊行した。同年、『時をかける少女』『48億の妄想』では、現実と非現実をつなぐ幻想のリアリズムによる、無気味なナンセンスSFのジャンルを開拓。『ベトナム観光会社』(1967年)と『アフリカの爆弾』(1968年)で直木賞候補となる。

1972年に神戸へ転居し、『虚人たち』(1981年)や『虚航船団』(1984年)、『文学部唯野教授』(1990年)など、多数の作品を発表。また、メディアの言葉の自己規制に抗して一時的に断筆を宣言、話題となった。

小松左京・星新一と並んで「SF御三家」とも称される。パロディやスラップスティックな笑いを得意とし、初期にはナンセンス文学なSF作品を多数発表。1970年代よりメタフィクションの手法を用いた前衛的な作品が増え、エンターテインメントや純文学といった境界を越える実験作を多数発表している。

戦国時代の武将筒井順慶と同姓であり、その子孫であるとの設定で小説「筒井順慶」を書いている。先祖は筒井順慶家の足軽だったらしい、と筒井は述べている。父は草分け期の日本の動物生態学者で、大阪市立自然史博物館の初代館長筒井嘉隆。実弟の筒井之隆は安藤百福発明記念館 横浜(愛称:カップヌードルミュージアム 横浜)の館長。息子は画家筒井伸輔。 孫がいる。

 

1934年、父・筒井嘉隆と母・八重の長男として、父方の実家である大阪府大阪市北堀江に出生。生家は住吉区山坂町(現:東住吉区山坂)。筒井は初期に自筆年譜を書き、船場生まれとしていたが、これは複数の勘違いが重なったことによるもので、その後修正されている。後に弟が3人(正隆、俊隆、之隆)生まれ、男ばかりの兄弟で育つ。

1941年、南田辺国民学校に入学。幼少期から漫画と映画に没頭し、小学生時代は『のらくろ』、エノケンに熱中。自分でも漫画を描いて他の子供に売りつけるなどしていた。また父が蔵書家であったことから読書好きとなり、小学生の頃は江戸川乱歩を愛読した。1944年、吹田市千里山に学童疎開し、千里第二国民学校に転校。地元の農家の子供から苛烈ないじめを受ける。終戦後の1946年、息子の成績不振を心配した父の計らいで大阪市立中大江小学校に転校。まもなく実施された知能検査で市内トップのIQ187であることが判明し、終戦後、当時大阪市によって設置されていた特別教室(政府設置の特別科学学級とは異なる)に在籍した。

1947年、大阪市立東第一中学校(現在は統合で大阪市立東中学校)に入学。この頃から不良少年となり、授業をさぼって映画館に通い詰める。父親の金をくすねたり、父親の蔵書や母親の着物を勝手に持ち出して古書店や質屋に売り映画代を捻出していた。その一方で手塚治虫に熱中し、赤塚不二夫や藤子不二雄などとともに『漫画少年』誌の投稿欄の常連でもあった。1948年、児童劇団「子熊座」に入団、演劇への興味が芽生える。

1950年、大阪府立春日丘高等学校に入学。演劇部の部長を務めるが学業は不振であった。春日丘高校はもともと女学校であったため女生徒の数が多く、筒井はここで女生徒からいじめを受けて女性への恐怖心を植え付けられたとしている。また、自宅の蔵書だったアルトゥル・ショーペンハウエルの『随想録』も愛読していたという。この頃マルクス兄弟の映画に傾倒。受験勉強への反発から新潮社版世界文学全集を読破し、サルトルやトーマス・マンの作品に影響を受ける。

 

1952年2月、関西芸術アカデミー研究科に研究生として入学。 同年4月、同志社大学文学部文化学科心理学専攻(現在は心理学部)に入学し、同志社小劇場に所属する。  

この頃カフカ、アルツィバーシェフ、ヘミングウェイなどを愛読し影響を受けた。また潜在意識について興味を持ち、吹田市の実家から京都市までの電車での通学時間を利用して、日本教文社版のフロイト全集を読破。その後美学および芸術学専攻(現在は美学芸術学科)に転じシュルレアリスムに興味を持つ。

1954年、関西芸術アカデミーを卒業して青年劇団「青猫座」に入団。初舞台は飯沢匡の『北京の幽霊』。同年日活のニューフェイスに応募するも、面接のみの二次試験で落選している。しかし「青猫座」での演技は高評価を受け、1955年、大阪毎日会館で『二十日鼠と人間』の主人公ジョージ・ミルトンを演じた際には、「東の仲代達矢、西の筒井康隆」と新聞に報じられた。1957年、大学を卒業。卒論は「心的自動法を主とするシュール・リアリズムにおける創作心理の精神分析的批判」。

同1957年、『シナリオ新人』創刊号に、「会長夫人萬蔵」を発表する。卒業後、展示装飾などを手がける乃村工藝社に入社し営業部に勤務。サラリーマン劇団「明日」に入団し演劇活動を継続する。

 

1959年12月に創刊された雑誌『SFマガジン』を読み衝撃を受け、1960年6月、ボーナスをつぎ込んでSF同人誌『NULL』を創刊。父と三人の弟が同人であり、康隆、正隆、俊隆がSF短編を、父嘉隆が家族の紹介文を、四男の之隆がカットを担当、活動初期は「澱口襄」など複数のペンネームで執筆。同人誌を出したのは当時SF小説を受け入れられるような新人賞がなかったためであるが、うまくマスコミに取り上げられ、「筒井一家」紹介記事がたびたび新聞に掲載、また毎日放送のテレビ番組に家族総出で出演したりもしている。

 

さらに『NULL』創刊号は江戸川乱歩の目に留まり、弟の作品や父による紹介文とともに、短編「お助け」が乱歩主催の雑誌『宝石』1960年8月号に転載。

これが実質的なデビュー作となった。

以降注文を受けてショート・ショートを各誌に発表しながら『NULL』にナンセンスなSF短編を発表していく。

 

1961年、4年間務めた乃村工藝社を退社、同志社大美学および芸術学専攻時代の先輩の後を継ぐ形で大阪市北区にデザイン事務所「ヌル・スタジオ」を立ち上げる。事務所の向かいの煉瓦会社で働いていた眉村卓と知り合い、後に小松左京らも加わり、「ヌル・スタジオ」はSF作家、SFファンのたまり場となっていった。また、雑誌『NULL』も筒井家以外のSFファンにも門戸を開き、小松左京、眉村卓、平井和正らのプロデビューしている作家らも参加。創刊翌年の1961年には、高校2年生の堀晃も参加した(『NULL』はのち、筒井が主宰した第三回日本SF大会「DAICON」(1964年)のレポートを兼ねた11号で終刊した)。

SF新聞』を刊行したが、数号で休刊となった。

 

1962年、『S-Fマガジン』のハヤカワ・SFコンテストで「無機世界へ」(後の「幻想の未来」の原形)が選外佳作となる。入選三席には小松左京、半村良がいた。翌年、同誌増刊号に「ブルドッグ」を発表し初登場。1964年、第3回日本SF大会・大阪大会(DAICON)を主催、前年に創立されていた「日本SF作家クラブ」に参加し、SF作家たちとの交流を深める。1965年、前年に脚本スタッフとして参加していたテレビアニメ『スーパージェッター』の商品化権料を多額に得て、作家専業のめどが立つ。

 

同1965年、小松左京夫妻の仲人で光子夫人と見合い結婚。直後に東京へ行き専業作家となる。同年10月、初作品集『東海道戦争』出版。しかし、しばらくは生活が苦しく、1967年頃、心配した小林信彦より『小説現代』などの中間小説誌を紹介され、以後中間小説誌での発表が増えていった。

 

筒井はそれまでのナンセンス、ブラックユーモアの作風に加え、1970年代から様々な文体を用いた実験的な作品を発表していき、次第に熱狂的なファンを獲得していった。初期のよく知られている作品には、PTAによる悪書追放運動を批判した『くたばれPTA』(1966年)、社会風刺からナンセンスな笑いを引き出した『ベトナム観光公社』(1967年)、痴漢冤罪の恐怖を描いた『懲戒の部屋』(1968年)、SF長編としての総決算的作品『脱走と追跡のサンバ』、高度経済成長期に勃興したウーマンリブ運動やフェミニズムを揶揄した『女権国家の繁栄と崩壊』(ともに1970年)、超能力者・火田七瀬を通して家族の裏側を書く『家族八景』、俗物的な人間を徹底的に風刺した『俗物図鑑』(ともに1972年)、小松左京『日本沈没』のパロディ「日本以外全部沈没」(1974年)など。1970年の第1回星雲賞を長編部門、短編部門で独占してから計8度同賞を受賞した。また1968年から直木賞に3度候補として挙げられたが(1967年『ベトナム観光公社』、1968年『アフリカの爆弾』、1972年『家族八景』)落選。筒井は後にこの経験から、作家志願者が文学賞選考委員を次々に殺していく(単行本の表紙には「張め。殺す。」「この源」「やいやい川〜郎め。死ね。」などの記述が断片的に見られる)スラップスティック作品『大いなる助走』(1979年)を執筆している。

 

1971年より純文学雑誌『海』に作品の掲載をはじめ、純文学の分野にも進出。また同誌の海外作家特集を愛読し、ガルシア・マルケス、バルガス・リョサなど中南米の作家への興味を持った。1978年には大江健三郎の紹介から『海』編集長塙嘉彦の訪問を受け、中南米の文学について教示を受けるなどして大きな影響を受けた。同年、登場人物が自身を虚構内の存在だと意識しているという設定を持つ『虚人たち』で泉鏡花文学賞を受賞。これを皮切りに、擬人化した文房具が乗り込む宇宙船団の混乱した群像・鼬の惑星の歴史・双方の戦乱とその末路を描き「純文学作品として」刊行した『虚航船団』(1984年)、夢と蓋然性をモチーフに独自の文学空間を切り開いた『夢の木坂分岐点』(1987年、谷崎潤一郎賞)、使用できる文字が1章ごとに1つずつ減っていくウリポ的な『残像に口紅を』(1989年)など、メタフィクションの技法を用いた言語実験的な作品を多数執筆。なお、『残像に口紅を』の執筆のためにワープロを導入し、これ以降の作品はコンピュータを使用して書かれている。

1990年代にも、文芸批評と大学機構をシニカルに下敷きにした学問小説『文学部唯野教授』、パソコン通信を使って読者の意見をインタラクティヴに取り入れながら、十八番の虚実錯綜の手法を使って連載された『朝のガスパール』(1992年日本SF大賞)など話題作を発表した。『残像に口紅を』『文学部唯野教授』2作連載時にはストレスで胃穿孔を起こし入院、入院中にハイデガーを読んで影響を受け、以後死や別れをモチーフにした作品も増えていった。

 

初期に書かれた近未来の管理社会を皮肉るショートショートSF『無人警察』(『科学朝日』1965年6月号所収。のち角川文庫2016年新版『にぎやかな未来』収録)が、1993年(平成5年)に角川書店発行の高校国語の教科書に収録されることになった際、作中のてんかんの記述(脳波測定器を内蔵した巡査ロボットが運転手を取り締まる際、主人公が「てんかん持ちの人が異常な脳波を出していた場合もチェックされるらしいが、おれはてんかん持ちでないしなあ」と独白する)がてんかんをもつ人々への差別的な表現であるとして、日本てんかん協会から抗議を受ける(筒井個人と団体間で数度交渉を行い一時決裂したのち、和解する。後述)。団体の抗議自体にではなく、ことなかれで言い換えや削除を行おうとする出版業界の現状や、安易な批判をする、あるいは真摯な擁護を見せずにただ騒ぎに便乗するだけの同業者などに業を煮やした筒井は、1993年9月、月刊誌『噂の眞相』に連載していた日記「笑犬樓よりの眺望」上で「私、ぷっつんしちゃいました」と断筆宣言に至った。

 

協会からの抗議が報じられた際、筒井の自宅には嫌がらせの電話や手紙が殺到したという。筒井はのちに内田春菊との対談で「いままで、いろんないやなことがあって、自主規制の問題なんかでも担当者にいやな思いをさせたけど、いちばんいやだったのは僕だったし、家族にまではそれは及ばなかった。でも、今度の場合は、家族や親戚にまで波及した」「今回は家族や親戚を守るためなんです」と語っている。またこの頃、筒井の母が急性心筋梗塞で死去しており、のちの瀬戸内寂聴との対談では「(騒動に関する心労が)亡くなったのにもいささか関係があったんじゃないかと思いますけれども」とも述べている。

そして、「断筆宣言以前から、一方的に新聞にてんかん協会の抗議文が載りましたんで、文芸誌とかミニコミ誌とか読まない近所の人たちの中には、私の家族を犯罪者の家族を見るような目で見る人もいた」と、マスコミが抗議の声におもねって筒井側の言い分をまったく取り上げないことに憤った。

断筆宣言は業界内でも賛否両論を起こした。友人である大江健三郎(息子の大江光は癲癇の症状を持っている)からは、読売新聞紙上で「社会に言葉の制限があるのならば、新しい表現を作り、使っていくのが作家ではないか」との批判を受けている。また大江は、自らを炭坑内の有毒ガスにいち早く反応して危険を知らせるカナリアになぞらえた筒井を「太ったカナリア」と揶揄している。

筒井は「断筆して以後、『文壇』というものがある、とよくわかった。去って行く者に追い打ちをかけたり、つばを吐きかけたり、反感がすごい」「ぼくを中傷することによって自分が浮上することだけを考えている。今までぼくを認めるようなこと言っていたやつまでですよ」と慨嘆した。特に絓秀実は『文学部唯野教授』の中にエイズ患者への差別描写があると部落解放同盟に注進し、筒井への糾弾を促した(ただし糾弾には至っていない)。一方、筒井を擁護した側には、曾野綾子、瀬戸内寂聴、安岡章太郎、井上ひさし、内田春菊、、井沢元彦、夢枕獏などがいた。

しかし「筒井の尻馬に乗って表現の自由をうんぬんしている作家たち」という岡庭昇や、みなみあめん坊(部落解放同盟大阪連合会池田支部代表の南健司)の発言が出てきたため、小林よしのり以外はみな沈黙してしまったという。

 

同年10月、断筆に至る経緯を記した『断筆宣言への軌跡』を刊行。

同年10月14日にはテレビ朝日「朝まで生テレビ!」特集「激論!表現の自由と差別」にゲストパネラーとして出演し、『無人警察』問題について自らの立場を主張すると共に、かつて『週刊文春』1985年5月9日号のコラム「ぴーぷる欄」における「"士農工商SF屋"というカーストがあるくらいで、SF作家が晴れの舞台を踏むことはまだ稀ですからね」との発言をめぐり部落解放同盟から糾弾されかけたことを明らかにした。

これは日本文壇におけるSF作家への差別を自虐的に語った言い回しだが、そもそも「士農工商穢多非人」という熟語は知らなかったので部落を揶揄する意図はなかった、以前「士農工商提灯屋」という表現に接したことがあり、洒落た表現なのでいつか使ってみようと思っていたと、この番組で筒井は小森龍邦に釈明している。

1994年(平成6年)4月1日、中野サンプラザにて山下洋輔らのジャズ演奏からなる「筒井康隆断筆祭」を開催。自身も演奏者として参加した。

 

1994年(平成6年)8月30日、岡山で開かれた部落解放西日本夏期講座(主催・部落解放研究所)のシンポジウム「差別問題と『表現の自由』」に基調講演者として出席。小林健治によると「これまで、多くの作家がその著作のなかで差別表現を指摘され、抗議を受けたが、抗議された作家が、みずから被差別運動団体の集会に出席して自分の意見をのべるというのは、初めての出来事だった」という。シンポジウムの冒頭の自己紹介で筒井は「差別者の筒井です」と言い放ち、2000人の出席者から万雷の拍手を受けたとされる。

1994年11月7日、日本てんかん協会との間で書簡の往復による「合意」にこぎつけ、記者会見で内容を発表。内容の骨子は

筒井氏が、角川書店に対し『無人警察』を次の版の教科書から取り除くよう申し入れる代わりに、
  1. 将来の作品で問題があれば、協会は物理的な圧力を含まない公開の言論活動で「批判」をする。
  2. その場合、要求は削除や書き直しでなく「新たな表現による弁明」とし、結論は筒井氏の判断にまかせる。
  3. 以上のことは筒井氏だけでなく、すべての表現者に適用される。

というものであった。「差別表現」に対する従来の対処は、被差別者側が気の済むまで糾弾を続け、差別者とされた側がひたすら謝罪し要求を受け入れるという硬直したやり方しかなかったところ、筒井と日本てんかん協会が双方の見解の相違を残しつつ合意と妥協に知恵をしぼった点は高く評価されたが、旧来の部落解放同盟的な糾弾路線を支持する人々からは反発を買った。

 

日本てんかん協会との和解について、朝日新聞社社会部の本田雅和や作家の塩見鮮一郎から『朝日新聞』紙上で激しく糾弾された筒井は、「どんな作品書いたのか誰も知らないような塩見鮮一郎なんて作家」「(日本てんかん協会との間の)往復書簡ろくに読まないでコメントしてる。解放同盟やてんかん協会が『よし』としてることにまで反対して、自社の自主規制を正当化しようとして、被差別団体以上の激しさでぼくを糾弾してくる」と批判している。

断筆中の1995年(平成7年)に阪神・淡路大震災で神戸市垂水区の自宅が被災する事態に見舞われる。断筆中は演劇活動に力を入れ、またウェブサイトを開設し未発表作品の公開などを行なった。

 

1995年11月から新潮社が断筆解除に向けて筒井にアプローチを開始。1996年12月16日、新潮社、文藝春秋社、角川書店と下記のような「覚書」を交わし、1996年12月19日、3年3ヶ月ぶりに断筆を解除すると発表(これと同じ覚書を後に中央公論社や噂の真相とも交わしている)。

  1. 出版社は従前どおり筒井氏の意に反した用語の改変は行わない。
  2. 作品の用語に関し抗議があった場合、これに対処する権利と責任は著述者(筒井氏)にあり、出版社にも責任がある。したがって、出版社が用語に関し抗議を受けた場合、著述者と協議し、その意志を充分尊重して対処する。
  3. 筒井氏が抗議に対処する上で、文書の往復や直接討論が必要になった場合には、出版社が責任をもって仲介し、その内容を発表する。

その後、1997年に『邪眼鳥』で小説家復帰を果たした。執筆再開後はこれまでの作風に加えて、『わたしのグランパ』(1998年、読売文学賞)や『愛のひだりがわ』など、『時をかける少女』以来のジュブナイル小説を発表。還暦を過ぎたこともあり、『敵』『銀齢の果て』といった老いをテーマにした作品も発表している。

 

断筆解除後はトレードマークであった眼鏡やサングラスをかけるのを止め、口ひげを蓄えている。さらに2000年代に入ってからは公の場では和服を着ることが多くなり、古典的な文士然とした身なりがトレードマークとなった。

東浩紀との交流からライトノベルに興味を持ち、2008年(平成20年)『ファウスト』にてライトノベル『ビアンカ・オーバースタディ』を掲載、宗田理に次ぐ高齢のライトノベル執筆者となった。

断筆解除後も、筒井は各新聞社との間で覚書を取り交わせずにいたが、2009年(平成21年)3月、以前『朝のガスパール』を連載していた朝日新聞社と覚書を取り交わし、同月30日より同新聞読書欄にてエッセイ『漂流―本から本へ』が連載(日曜日のみ)された。

2012年(平成24年)7月13日から2013年(平成25年)3月13日まで、朝日新聞に小説「聖痕」が連載された。

2013年、他のベテラン作家らとともに、日本SF作家クラブの名誉会員になった。

2020年2月、息子筒井伸輔に先立たれた。

 

受賞歴:

 

  • 1970年 - 『霊長類南へ』で第1回星雲賞(日本長編部門)、『フル・ネルソン』で同賞(日本短編部門)受賞。
  • 1971年 - 『ビタミン』で第2回星雲賞(日本短編部門)受賞。
  • 1974年 - 『日本以外全部沈没』で第5回星雲賞(日本短編部門)受賞。
  • 1975年 - 『おれの血は他人の血』で第6回星雲賞(日本長編部門)受賞。
  • 1976年 - 『七瀬ふたたび』で第7回星雲賞(日本長編部門)、『スタア』で同賞(映画演劇部門)受賞。
  • 1977年 - 『メタモルフォセス群島』で第8回星雲賞(日本短編部門)受賞。
  • 1981年 - 『虚人たち』で第9回泉鏡花文学賞受賞。
  • 1987年 - 『夢の木坂分岐点』で第23回谷崎潤一郎賞受賞。
  • 1989年 - 『ヨッパ谷への降下』で第16回川端康成文学賞受賞。
  • 1990年 - ダイヤモンド・パーソナリティー賞受賞。
  • 1991年 - 日本文化デザイン賞受賞。
  • 1992年 - 『朝のガスパール』で第12回日本SF大賞受賞。
  • 1997年 - フランス・芸術文化勲章シュバリエ受章。フランス・パゾリーニ賞受賞。
  • 1999年 - 『わたしのグランパ』で第51回読売文学賞受賞。
  • 2002年 - 紫綬褒章受章。
  • 2010年 - 第58回菊池寛賞受賞。
  • 2017年 - 毎日芸術賞受賞。
  • 2019年 - 『東海道戦争』で1965年度レトロ星雲賞(日本短編部門)受賞。
  • 2019年 - 『筒井康隆、自作を語る』(編集:日下三蔵)で第50回星雲賞(ノンフィクション部門)受賞。
  • 2022年 - 日本芸術院賞・恩賜賞受賞。

映画化作品:

  • 俺の血は他人の血(1974年)監督:舛田利雄
  • 二人でお茶を(1979年)監督:早川光
  • 素敵なあなた(1980年)監督:早川光
  • スターダストライジング(1980年)監督:早川光
  • 歪み-SCREW(1980年)監督:藤森潤
  • ウィークエンド・シャッフル(1982年)監督:中村幻児
  • 俗物図鑑(1982年)監督:内藤誠
  • 時をかける少女(1983年)監督:大林宣彦
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  • 家族八景(1984年)監督:内藤誠
  • ジャズ大名(1986年)監督:岡本喜八
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  • スタア(1986年)監督:内藤誠
  • 文学賞殺人事件 大いなる助走(1989年)監督:鈴木則文
  • 男達の描いた絵(1990年)監督:友松直之
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  • 怖がる人々(1994年)監督:和田誠、オムニバス映画。第3話「乗越駅の刑罰」、第5話「五郎八航空」
  • 男たちのかいた絵(1996年)監督:伊藤秀裕
  • 時をかける少女(1997年)監督:角川春樹
  • わたしのグランパ(2003年)監督:東陽一
わたしのグランパ – パラブラ映画部
  • 時をかける少女(2006年)監督:細田守
  • 日本以外全部沈没(2006年)監督:河崎実
  • パプリカ(2006年)監督:今敏
  • 七瀬ふたたび(2010年)監督:小中和哉

七瀬ふたたび | あらすじ・内容・スタッフ・キャスト・作品情報 - 映画ナタリー

 

これから、筒井康隆の映画化作品をできるだけ多くレビューして行きます。

 

ご期待ください。