「仔象は死んだ」
1980年12月1日公開。
原作:阿部公房
脚本:阿部公房
監督:阿部公房
出演者:
山口果林、伊藤裕平、岩浅豊明
あらすじ:
不明。
コメント:
阿部公房が芝居にのめり込んで自らスタジオを開き、運営していた。
1973年 (昭和48年)、段ボール箱を被ったまま生活する男を描いた小説『箱男』を発表。
同年、自身が主宰する演劇集団「安部公房スタジオ」を発足させ、本格的に演劇活動をはじめる。
発足時のメンバーは、新克利、井川比佐志、伊東辰夫、伊藤裕平、大西加代子、粂文子、佐藤正文、田中邦衛、仲代達矢、丸山善司、宮沢譲治、山口果林の12名であった。以後安部公房スタジオは堤清二の後援を受け西武劇場を本拠地として活動した。
そのころ創った映画のひとつがこれのようだ。
残念ながら、あらすじも、評価も分からない。
フランスでも上映され、人気があったというが、現時点では、全くその詳細は不明。
今回その原作を読んでみたが、不可解な舞台劇の戯曲になっており、例によって何を言いたのか不明のまま突然終わってしまう短編の作品だ。
最初と最後の部分のみ記載する:
最初:
仔象は死んだ
(イメージの展覧会Ⅲ)
1
空間。時を告げる音。
いちめんに白い布のような地面、あるいは白い地面のような布がひろがっている。小皺のうねが波立ち光っている。(布ー人生の投影装置。子供たちはシーツ遊びをしながら成長し、大人は布を手に入れるために流した汗を手に入れた布でぬぐい、やがて白布にくるまれて死んでいく)
最後:
布A 弱者への愛には、
他の布たち 弱者への愛には、
布A いつも殺意がこめられている。
ほかの布たち 殺意がこめられている。
この戯曲の中途には「仔象」を表わそうとしている部分が出てくるが、ほんの30行程度しかない。
仔象が死ぬシーンは記載がない。
「餌をやらないで下さい。」
というせりふがあるのみだ。
なぜこういうタイトルにしたのか理解できない。
布について最初に表現している部分は、人生を表わしていて、とても哲学的だと理解できるのだが。
これを舞台劇にしたり、映画化するというのは、かなり難しいと思われる。
やはり、阿部公房という人は、相当な変わり者だったようだ。
あの名作とされている「他人の顔」も、原作を読んでみると、かなり解りにくい筋書きになっている。
よくぞ勅使河原宏があれだけ面白い映画に仕上げたものだと感心させられる。
かなり一般人が分かるようなストーリーになっているのだ。
ただ、「他人の顔」の巻末にノーベル文学賞受賞者の大江健三郎が解説を書いていて、この作品を激賞しているのだ。
やはり、天才同士は理解できるのかも知れない。
いやはや、不思議ちゃんの作品は大変だ!
さらに、ネットにあった貴重な情報を転載する:
(そのまま)
1980年 7月に私が観た唯一の『安部公房スタジオ』は 西武劇場での『仔象は死んだ』だ。
この公演以降・・・解散してしまった。
言葉を介在しない 身体だけの表現で モダンダンスのような動きで 大きな布一枚を複数の人が一つの大きな生き物のように表現したり 照明によってシルエットのみの動きを見せたり・・・副題が『イメージの展覧会』
果林さん(山口果林)はおそらく 35歳くらいだと思うが とてもしなやかで瑞々しくて少年みたいに見えた。
この日本での公演前にアメリカ公演をしていて とても前衛的で好評を博していたらしい。
(補足:その後、このスタジオは閉鎖されたようだ)
どうやら 安部公房スタジオの解散の原因は 主演女優と演出家の関係に原因があったということだ。
このスタジオの美術監督は安部公房の奥さんの安部真知という人が担当していたのだが(安部真知さんは、女子美出身だ)
こんな事実が明白になったため立ち行かなくなってしまった。
この公演以降 演出家は奥さんと別居状態になり、本格的に、果林さんとの生活になったそうだ。
一緒の生活と言ってもそれぞれ仕事があるし、それぞれ忙しく独立していたから時々一緒になる変則的なもので、平安時代の『通い婚』みたいだ。
当時、全然内情など知る由もない観客の私など・・・解散なんてどうしたんだろうかと思ってた・・・
安部公房は
1987年ガン告知されてから
1993年に亡くなるまで6年間
果林さんとごく親しい人以外にはそのことを秘密にしていた。
この情報は以下のサイトより転載させていただいた:
山口果林は、有名な女優である。
主な出演映画は、『若者の旗』、『砂の器』、『海潮音』。
東京都中央区出身。実家は日本橋兜町の老舗の外商専門書店「千代田書店」。
お茶の水女子大学附属中学校・高等学校、桐朋学園大学短期大学部卒業後、俳優座に入る(若手時代の愛称は「かりんとう」)。
1970年3月、桐朋学園大学演劇専攻科を卒業すると森川時久監督の『若者の旗』で映画デビュー。 同年行われたNHK長編ドラマ『繭子ひとり』(1971年放映)の選考会では150人を相手に勝ち抜き主役の座をつかみ好演した。
1979年、俳優座を離れ、フリーとなる。テレビドラマや映画で活動する一方、舞台女優としての経歴も長い。
桐朋学園大学短期大学部時代の恩師であった安部公房が芸名の名付け親であり、「芸名は左右対称の名前がいい」という当時昔からあったといわれていたジンクスに則り、「山口茜」「山口晃」「山口果林」の名が候補として用意された。
占い師に見てもらったところ、山口茜は「スターになれる名」、山口果林は「スターとまではいかないが、努力すればするだけの実りがある名」と言われたことで「果林の方が私の生き方に合ってる」と思い、果林を選択した。
その後も安部公房スタジオの看板女優としても活躍した。
2013年に上梓した著書『安部公房とわたし』では、安部との20年以上に亘った恋愛関係を明らかにした。なお、口絵には、安部が撮った自らのヘアヌードの写真がある。
元日本財団アドバイザリー会議委員。
ということで、見つかったものは、安部公房がひそかに長い期間愛し続けた愛人が山口果林であり、阿部公房の死後、彼女自身がそれを公表している。