「或る夜の出来事」
(原題:It Happened One Night)
1934年2月22日公開。
ラブ・コメディ映画の元祖的存在の傑作。
第7回アカデミー賞主要5部門で受賞。
受賞歴:
第7回アカデミー賞
- アカデミー作品賞
- アカデミー監督賞:フランク・キャプラ
- アカデミー主演男優賞:クラーク・ゲーブル
- アカデミー主演女優賞:クローデット・コルベール
- アカデミー脚色賞:ロバート・リスキン
原作:サミュエル・ホプキンス・アダムス「夜行バス(Night Bus)」
脚本:ロバート・リスキン
監督:フランク・キャプラ
キャスト:
- ピーター・ウォーン:クラーク・ゲーブル
- エリー:クローデット・コルベール
- アンドルーズ:ウォルター・コノリー
- シェプリー:ロスコー・カーンズ
- ウェストリー:ジェムソン・トーマス
- ゴードン:チャールズ・C・ウィルソン
あらすじ:
ニューヨークでも屈指の大銀行家アンドルース(ウォルター・コノリー)の一人娘エリー(クローデット・コルベール)は、頑固な父の承諾を得ずに飛行家キング・ウェストリー(ジェムソン・トーマス)と婚約したために、マイアミ港外で父のヨットに監禁される。
辛抱できなくなった彼女は海に跳び込んで逃げ、キングのいるニューヨークへ向かうべく人目を忍んで夜間バスに乗る。
バスの中でエリーは、失業中の新聞記者ピーター・ウォーン(クラーク・ゲーブル)と同席になった。
娘の失踪を心配したアンドルースは、1万ドルの懸賞金付きで行方を捜索させる。
ピーターは新聞記事によってこのことを知ったが、1万ドルを手にしようともせず、彼女とのバス旅行を続けていく。
途中、橋が洪水のために壊されて捜索の手は伸びてきたが、ピーターの機智によって、まんまと逃れることができた。
こんなことから2人はいよいよ親しくなる。
所持金を使い果たし、バス旅行も続けられなくなったので、今度は徒歩でニューヨーク行きを続ける。
野宿をしたり野菜を盗み食いしたり、ヒッチハイクをしたりと苦楽をともにして遂にニューヨーク郊外まで来た2人は、バンガロー宿に頼んで泊めてもらう。
そこで、エリーは父アレクサンダーが出した新聞広告を目にする。
結婚を許可するから居場所を知らせよ、という内容だった。
しかし今はピーターを恋しているエリーは、彼に自分の想いを打ち明ける。
だがピーターは無一文では百万長者の娘に結婚を申し込む訳にいかないと思い、エリーの眠るのを待ってひとり抜け出してニューヨークに急ぎ、2人のロマンチックな旅行記を以前いた新聞社に1000ドルで売り、急いで引き返す。
しかし、夜中に目を覚ましたエリーはピーターに置きざりを食らったと思い違いして、父に連絡して迎えにきてもらう。
2人はお互いの心を誤解したまま、別れてしまう。
アンドルースは娘が無事に帰宅したことを喜び、ウェストリーとの結婚式を盛大に挙げる準備を進める。
しかしエリーの心は平静ではなかった。
娘の心中を知ったアンドルースはピーターの真意を聞き正し、結婚式の最中にエリーを自動車に乗せ、ピーターの元に走らせる。
ウェストリーは10万ドルの慰謝料を貰って、喜んで結婚を解消。
そして、ピーターとエリーは田舎の安宿で新婚の夜を迎え、それまで二人の純潔を守っていたカーテンで作った「ジェリコの壁」は取り払われるのだった。
コメント:
1934年のアメリカ合衆国のスクリューボール・コメディ映画である。
スクリューボール・コメディ(Screwball comedy)とは、1930年代初頭から1940年代にかけてハリウッドでさかんに作られたコメディ映画のサブジャンル。
常識にとらわれない登場人物、テンポのよい洒落た会話、つぎつぎに事件が起きる波乱にとんだ物語などを主な特徴とする。
「スクリューボール」は当時のクリケットや野球の用語で「スピンがかかりどこでオチるか予測がつかないボール」を指し、転じて突飛な行動をとる登場人物が出てくる映画をこう呼ぶようになった。
納得の面白さ。
88年前、トーキー5年目の時代にこのクオリティ。
開幕の海へのダイブ、最悪の出会い、ジェリコの壁、賞金目当ての男、藁で野宿、ヒッチハイク等見所満載。
オチも見事。
最初から最後まで気持ちよくみれる作品である。
コメディとしても、ラブ・ストーリーとしても最高の作品。
監督をつとめたフランク・キャプラ(英語: Frank Russell Capra, 1897年5月18日 - 1991年9月3日)は、アメリカ合衆国の映画監督。
『或る夜の出来事』『オペラハット』『我が家の楽園』で3度アカデミー監督賞を受賞している。
この人は、イタリア・シチリア島ビザックイーノ出身。
ぶどう園を営む家庭に生まれるが、7人兄弟だったため家は貧しく、6歳で家族と共にロサンゼルスに移住。
父はオレンジ畑で働いたが、貧乏ゆえキャプラ自身も幼い頃から新聞の売り子や酒場でバンジョー弾きとして家計を助ける。
苦学して1918年にThroop Institute(後のカリフォルニア工科大学)でエンジニアリングを学び、卒業後に陸軍に従軍するも、スペイン風邪にかかり除隊。
その後は本のセールスなど詐欺まがいの職業を転々とした後、作家になる為にシナリオ学校に入るが、小説よりも映画に興味が沸き、1921年にインディペンデント系のクリスティ映画社に入社。
その後、ポール・ガースン映画社で助監督として主にそれまでアメリカ映画界の主流だった喜劇映画の製作に関わり、キプリングの詩を脚色した1922年の短編『Fultah Fisher's Boarding House』が事実上の監督デビュー作となる。
その後、ハル・ローチに招かれて、当時人気だった喜劇『ちびっ子ギャング』シリーズのギャグ・ライターとして活躍。1925年にマック・セネットと出会い、喜劇俳優ハリー・ラングドン主演のコメディで長編監督デビュー。
以降はラングドン専属の映画監督となったが、ラングドンが監督にも進出するようになり、あぶれてしまったキャプラは、1928年に当時、まだマイナーなスタジオだったコロムビア映画に招かれる。
コロムビアではじめて撮った『呑気な商売』の出来に満足した重役のハリー・コーンらと専属契約を結び、以後はコロムビアの職人監督として『サブマリン』、『渦巻く都会』、『空の王者』、『大飛行船』、『狂乱のアメリカ』など、話題作や大作ドラマに起用される。1929年にはコロムビア初のトーキー「The Younger Generation」を手掛け、コロムビア上層部からの期待を担う。
1931年の『奇跡の処女』を担当した脚本家でのちに盟友となるロバート・リスキンと意気投合し、1933年、コンビを組んで人情喜劇『一日だけの淑女』を発表、本作はアカデミー作品賞と監督賞にノミネートされ、キャプラとリスキンの出世作となるが、アカデミー授賞式の際、キャプラは新調したタキシードを着て出席、プレゼンターの「フランク!」の声で自分が選ばれたと思い、席を立ち上がるキャプラだったが、スポットライトを浴びたのはフランク・ロイドの方で、キャプラは赤っ恥をかいた。この時、2度と授賞式には出席するものかと思ったという。
1934年の『或る夜の出来事』は、スクリューボール・コメディでありまたロード・ムービーの元祖としての評価も高く、この年のアカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚本賞と主要部門を制覇、のちにこの記録は『カッコーの巣の上で』が現れるまで唯一の事例で、キャプラとしては前年になめさせられた苦汁を跳ね返した。
本作の主役だったクラーク・ゲーブルとクローデット・コルベールはそれぞれMGMとパラマウント映画の専属スターで、当初は弱小スタジオ製作のこの映画に貸し出されたことに納得がいかなかったという。
これにより、コロムビアは一躍メジャー・スタジオの仲間入りを果たす。
キャプラもリスキンとのコンビで快進撃を続け、1936年にのちにキャプラ映画の常連となるゲイリー・クーパーやジーン・アーサーを起用した『オペラハット』で再び監督賞を獲得、1938年に再び組んだジーン・アーサーとのちにキャプラ映画を代表する俳優となるジェームズ・スチュワートが初出演した『我が家の楽園』では作品賞と3度目の監督賞を受賞したのであった。
Rotten Tomatoesにおける評価は、なんと98点。
アメリカ人が最も好きなストーリー展開になっていることを如実に示している。
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