イタリア映画 「シシリーの黒い霧」 実在したシシリー・マフィアのボスを描く異色作! | 人生・嵐も晴れもあり!

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「シシリーの黒い霧」

(原題:Salvatore Giuliano

 

Salvatore Giuliano (1962) - IMDb

 

「シシリーの黒い霧」 全編

 

1962年3月1日公開。

フランチェスコ・ロージ監督のベルリン映画祭銀熊賞受賞作品。

 

受賞歴:

  • 第12回ベルリン国際映画祭(1962年)銀熊賞 (監督賞)受賞(フランチェスコ・ロージ)
  • 1963年度ナストロ・ダルジェント賞
    • ナストロ・ダルジェント最優秀作品監督賞受賞(フランチェスコ・ロージ)
    • ナストロ・ダルジェント作曲賞受賞(ピエロ・ピッチオーニ)
    • ナストロ・ダルジェント撮影賞(白黒)受賞(ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ)

 

脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ、フランチェスコ・ロージ、エンツォ・プロヴェンツァーレ、フランコ・ソリナス

監督:フランチェスコ・ロージ

 

キャスト:

サルヴァトーレ・ジュリアーノ:ピエトロ・カンマラータ 

ビテルボ裁量裁判所所長: サルボ・ランドーネ

ガスパレ・ピショッタ:フランク・ウルフ 

ジュゼッペ・カランドラ :センヌッチョ・ベネリ

フランチェスコ:マックス・カルティエ 

山賊:フェルナンド・シセロ 

スパイ:ブルーノ・ウクマール 

フランク・マンニーノ:コジモ・トリノ 

ピショッタの弁護人:フェデリコ・ザルディ

 

MoMA | Francesco Rosi's Salvatore Giuliano

 

あらすじ:

1950年7月5日。

シシリー島(シチリア島)のある民家の中庭でサルバトーレ・ジュリアーノという三十歳の男の射殺死体が発見された。

話は五年前にさかのぼる。

当時シシリー島には独立運動が渦まき、独立義勇軍がマフィアや地主勢力と結んで、ファシスト政府と戦っていた。

義勇軍は匪賊サルバトーレ・ジュリアーノ一味を味方にし、独立達成の時は彼らを特赦することを約束していた。

だが、連合軍上陸と同時にイタリア解放委員会第一次政府は、義勇軍を弾圧した。

そして五年後の今、中庭ではジュリアーノの検死がつづく。

彼は誰に殺されたのか。

再び話は1946年。

政府軍はシシリー独立義勇軍を攻撃した。

だがジュリアーノは最後まで戦った。

そしてシシリーには自治が認められた。

しかしジュリアーノ一味は匪賊とみなされ、特赦されなかった。

そして現在、ジュリアーノの母は息子の死体にとりすがって泣く。

「彼を誰が殺したか!」と。

再び1949年。

第一回シシリー自治政府の選挙は人民連合派の勝利に帰した。

共産党はメーデーを祝う。

その時、ジュリアーノ一味が集会を銃撃した。

そして今。ジュリアーノの死をめぐる裁判では彼の片腕ピショッタ(フランク・ウォルフ)が出廷し、奇々怪々な当時の情勢が明るみに出る。

誰が彼にメーデーを襲撃させたか。

そして誰が、彼を殺したのか。

話はもう一度1950年に。

マフィアは憲兵隊と組んでジュリアーノ一味を追いつめた。

そして憲兵隊はかくれ家を襲いジュリアーノを殺した。

死体は中庭に引出された。

そして現在。法廷で終身刑をいい渡されたピショッタは無実を叫ぶ。

だが、ジュリアーノ殺しは一体、何のために、誰の手引きでなされたのか。

十年後の1960年に、当時を知るマフィア一味の一人が群衆の中で殺された。

そして未だに、ジュリアーノ殺しの真相は解っていない。

 

Salvatore Giuliano review – Philip French on the 'Marxist Citizen Kane' |  Movies | The Guardian

 

コメント:

 

シシリー島に古くからある秘密結社マフィアの中心人物サルバトーレ・ジュリアーノの暗殺事件をセミ・ドキュメンタリータッチで描いた社会劇。

 

ドキュメンタリータッチの社会派映画。

シシリー島で起きたある殺人事件。

その背後に蠢くイタリアの暗い闇に身震いする。

一つの殺人を通して匪賊、警察、憲兵、マフィアの複雑な関係をサスペンスフルに描いた傑作。

時系列が前後するだけに登場人物たちの顔と役柄をしっかり頭に叩き込みながら観るのも大変だが、それもまた本作の面白さを考えれば苦にならず。

あれだけの人数を動員したスケール感も迫力あり。

 

この映画での中心人物・サルバトーレ・ジュリアーノは、シチリア島に実在した人で、以下のような生涯を送っている:

 

サルヴァトーレ・ジュリアーノ - Wikipedia

(実際のサルバトーレ・ジュリアーノ)

 

1922年11月16日、サルヴァトーレはシチリア島のパレルモ近郊の村モンテレプレにサルヴァトーレ・Srの四男として生まれた。両親は1904年にアメリカに渡り、1922年に帰国すると稼いだ金で農地を買い生計を立てた。

学校が嫌いな彼は12歳から働き始め、色々な職を経験したがどれも長続きしなかった。気が短い性格で雇い主と何度も喧嘩したという。20歳のときに電話敷設工事の仕事を解雇されると、その頃、連合国軍がシチリアに上陸して布いた配給制度を利用して小麦などの闇取引に手を染めた。しかし1943年9月2日午後、小麦をロバに積んで村に戻るところ、憲兵の検問所で持ち物を取り上げられ、憲兵詰め所に来るように命令された。この厳しい措置に怒り、憲兵2人を射殺した。その時にジュリアーノ自身も撃たれ足を怪我した。その後、傷が治ると憲兵に復讐するため、山賊になった。憲兵隊は12月22日にジュリアーノの家族や親戚を含めて126人を拘留した。その夜にジュリアーノは復讐をする。憲兵詰め所に押しかけ、機関銃を乱射し、1人を射殺した。

山賊になってから警察や地主の家々を襲撃し、金品や食料を奪った。金持ちから奪い貧乏人に物を与え恩を売った。そうしてロビン・フッドのイメージが作られ、民衆から尊敬を受けるようになり人気も得た。最盛期には彼の山賊団は500人はいたといわれている。彼の山賊団は7年間活動したが、その間だけで149人を殺害している。さらに殺人未遂事件は172件あったという。

 

ジュリアーノは、シチリア独立運動のときは独立派に参加し、50人ほどの部隊で警察の宿舎を襲撃し武器を奪い書類を焼き払ったりし、刑務所も襲った。

1947年5月1日にはポルテッラ・デッレ・シネストレの虐殺事件を起こす。この事件の首謀者はジュリアーノの山賊団だった。彼らは無防備の社会主義者2000人が開いていた集会場所に向かって発砲し、11人を射殺し、27人を負傷させた。その後も、各地の社会党や共産党の支部を襲撃した。独立運動が収まると再び山賊となる。

 

政府・警察による山賊一掃が始まった時期、ジュリアーノはサント・フレーレスらマフィアとの関係を強めていた。警察とも繋がっているマフィアに勧められるまま、ジュリアーノは密かに他の山賊を攻撃したり、その情報を警察に流したりし、それによって自分たち以外の山賊を壊滅に追いやった。その際、ジュリアーノは過去の罪を帳消しにする密約を結んだが、結局反故にされたという。しかし、次第にマフィアと対立するようになり、ジュリアーノはフレーレスを殺害し、そのボスのカロジェロ・ヴィッツィーニを威嚇、脅迫し1949年には襲撃した。そのためヴィッツィーニは身の危険を感じ一時的に身を隠した。

 

ジュリアーノは、1950年7月5日に片腕で従兄弟のガスパレ・ピッシェッタに裏切られ、寝ているところを射殺された。ピッシェッタは後の裁判で山賊とマフィアと警察の関係を暴露した後に終身刑を受け収監されたが、マフィアの報復を恐れて独房に入ったが、コーヒーに毒を盛られ殺害された。殺害の犯人は捕まらなかった。

 

貧しい人々に金品や食料を分け与えたことから生地では英雄視されており、ジュリアーノの墓は観光地となっている。 

しかしその最期については疑問も持たれており、アメリカ亡命説もある。2010年遺体のDNA鑑定では90%以上の確率で本人であるという結果が出たという。

 

 

この映画の監督をつとめたのは、フランチェスコ・ロージ。

この人は、1922年、ナポリに生まれる。

法律を学んだが、映画監督を志し、1948年頃からルキノ・ヴィスコンティの下に助手として弟子入りし、1950年代前半にかけて助監督を務める。カモッラのボスのエピソードに基づいた1958年の『挑戦』で知られるようになる。

戦後の崩壊したイタリアを扱った本作『シシリーの黒い霧』で第12回ベルリン国際映画祭銀熊賞 (監督賞)を受賞。

翌年1963年の『都会を動かす手』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。

1972年の『黒い砂漠』でカンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞により 世界三大映画祭の全てで受賞を成し遂げた。

さらに1979年の『エボリ』でモスクワ国際映画祭金賞を受賞し、1981年の『Tre fratelli』はアカデミー外国語映画賞にノミネートされた。

ネオレアリズモの社会派ドキュメンタリーの手法を取り入れ、ピエル・パオロ・パゾリーニやタヴィアーニ兄弟、ヴァレリオ・ズルリーニやエットーレ・スコラらと共に、1960年代から1970年代のイタリア映画のポスト・ネオレアリズモを代表する存在となる。

初中期の作品には強い政治的主張が見られるが、円熟期にはより文学的な表現に近づいていった。

2008年の第58回ベルリン国際映画祭では彼の功績を讃えて13作品が特別上映され、金熊名誉賞が授与された。

2012年には第69回ヴェネツィア国際映画祭で栄誉金獅子賞が授与された。

2015年1月10日、ローマで死去。92歳。

 

この映画は、YouTubeで全編無料視聴可能。