「情事」
(原題: 「L'avventura」)
1960年6月29日公開。
ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「愛の不毛三部作」第1作。
1960年のカンヌ国際映画祭審査員賞受賞。
脚本:ミケランジェロ・アントニオーニ、トニーノ・グエッラ、エリオ・バルトリーニ
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
キャスト:
- サンドロ - ガブリエル・フェルゼッティ
- クラウディア - モニカ・ヴィッティ
- アンナ - レア・マッサリ
あらすじ:
ローマの上流階級のひとり娘アンナ(レア・マッサリ)には、若い建築家のサンドロ(ガブリエレ・フェルゼッティ)という恋人がある。
そのサンドロは都会の頽癈と倦怠にむしばまれて、すでに芸術的な意欲を失い、アンナへの愛すらも不安定なものになっていた。
アンナの不安と焦燥感は実はそこに原因があった。
ある夏の終わり、二人は上流階級の友人たちに招かれて、数日間、シチリア島の近くにあるエオリエ群島へヨット旅行に出かけた。
アンナはその旅行に親友のクラウディァ(モニカ・ヴィッティ)をさそった。
三人は何となく気まずい零囲気の中で、ヨット旅行を続けたが、とある無人島に上陸したとき、突然アンナの姿がかき消すようになくなったのである。
ヨットに乗り合わせていた友人たちとともに、サンドロとクラウディアは必死にアンナを探したが、彼女の姿は沓として消えたままだった。
あくる日も荒涼たる島の中を一同は手わけして探しまわったが、やはりアンナの姿はどこにも見つからなかった。
事故で溺死したのだとしても、死体も見当らない。
捜査は打ち切られた。
しかし、サンドロとクラウディアは生きているかもしれないアンナを求めて捜索の旅に出た。
アンナの失跡によって結びつけられたこの二人は、何者かにおびえるような不安の中で、だんだんと離れ難くなって行った。
情事の旅を続けながらアンナのイメージは二人の念頭から薄らいで行った。
いうまでもなく、他の友人たちの間ではもうアンナの事はすっかり忘れられていた。
あるパーティの夜。友人たちは当然のようにこの新しいカップルをむかえた。
その夜、酔ったサンドロは見知らぬ女を抱いた。
不安の一夜を明かしたクラウディアはそんなサンドロの姿を発見して絶望した。
だが、サンドロの方もその気持は同じだったにちがいない。
サンドロは後悔して、戸外のベンチで一人男泣きに泣いた。
その肩をうしろから、追いかけてきてそっと抱いたのはクラウディアであった。
コメント:
この作品は、「ネオレアリズモ後の退廃的映画」との評価がある異色作だ。
モニカ・ヴィッテイを中心にした見方だ。
彼女が演じたクラウディアは、ルネ・クレマンの大ヒット作『太陽がいっぱい』におけるアラン・ドロンの役柄と似ているのだ。
ローマの上流階級のひとり娘アンナ(レア・マッサリ)は、若い建築家のサンドロ(ガブリエレ・フェルゼッティ)と付き合っているが、その恋愛にも行き詰まりの感がただよっている。
アンナは女友達のクラウディァ(モニカ・ヴィッティ)をさそい、上流階級の友人たちとヨットの旅に出る。
しかし立ち寄った小島でアンナが行方不明になり、捜索隊を呼び寄せることになる。
しかし死体も見つからない。
彼女は死んだのか、自殺したのか、それとも失踪したのか・・・。
全ての可能性があるのだが、どれも確実ではない。
結局捜査は打ちきられるが、サンドロとクラウディアは生きているかもしれない。
彼女が生きている可能性をもとめて二人は彼女の行方を捜す旅に出る・・・。
モニカ・ヴィッティの役どころは、ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンのような立ち位置から始まる。
彼女の友達のアンナは上流階級の娘であり、若手建築家のサンドロという恋人もいる。
二人の恋愛には倦怠感がただよっているのだけど、それでも、「彼氏がいるという優越感」をアンナからクラウディアはいつもみせつけられている。
おそらく、クラウディアは、サンドロのことをおもてには出さないまでも、気にしているのだろう。
多分アンナもそれを知っていて、「これは私のものよ。多少不誠実なことをしたとしても、彼は私をもとめることをやめないわ」みたいな態度をとっている。
クラウディアを待たせておいて、アンナはサンドロの部屋に行き、クラウディアを待たせるのは悪いと思っているサンドロに、強引に自分を抱かせるのだ。
下で待っているクラウディアにも二人がベットでエッチしていることがわかるように、窓からちらっと見えるように行動する。
自分がないがしろにされていることを、笑顔で知らないふりをするしかないクラウディア。
このシチュエーションはまさに『太陽がいっぱい』のアラン・ドロンなのだ。
ちなみに『太陽がいっぱい』も1960年の作品であり、同時期に同じようなシチュエーションで展開する。
この映画の中にも、「アンナになりかわりたい」というクラウディアのささやかでしぶとい願望があるようにみえる。
ただ、それはほとんそ表面的には見えない。
それが垣間見られるのが、アンナが失踪した翌日、彼女の父親が島に来た時。前日の雨でぬれた服の変わりにアンナの服をきているところを父親にみられて、どぎまぎと言い訳をする。
別に大いなる意味があったわけではないのだろう。
しかし、自分のかすかな想いが具現化してることに、はたと気づき、その服がアンナのものだということを知っている彼の父に対しては、ある種のばつの悪さが表面化している。
こういうさりげないところの演出がすばらしい。
アンナの失踪の様子もこれまた不確実性の表現ですばらしい。
突然いなくなったアンナ。
落ちたら死ぬな・・というような断崖をみせる一方で、誰もいないと思われていた島には小屋があり、その管理人が時々来ている事実がある。
さらに、突然たんたんたんたんたん・・とボートのエンジン音。
でもそのボートはみえない。
のちにそれは密輸業者が小船でその島のまわりを通っていて、その船に乗せたられたかもしれない・・という可能性を示しているのだ。
アントニオーニの「見せないで魅せる」手法は徹底している。
なので見る人が感受性を繊細にしておかないと気づかない。
見ている人がそれに気づいたとしても、それがなぜそうなのか理解できないと忘れてしまうように出来ている。
そうでなければ、その不確実な信号に不愉快さを感じて観続けることをやめてしまう。
アントニオーニはそんな人を置いてけぼりにしてしまう。
アンナが失踪した翌日、潮の流れにそって捜索隊と一緒にさがしてみるというサンドロと、ヨットのなかでつかぬ間の二人だけの時間。
よくわからないけど、それがあたりまえのように、キスをもとめられるクラウディア。
そして、キスしてしまう二人。
これ以降、二人の感情がすこしづつ表面化していく。
人によっては「こんな突然なのはありえないいー」と思うかもしれないが、この流れは自然に見えなくもない。
多分サンドロも、アンナとエッチをしているときに、いつもアンナと一緒にいるクラウディアを抱くところを想像したことがあったはずだ。
理性で考えるとありえないことなのだが、それをわかる人にだけ最小限の説明で見せるのがアントニオーニのすごいところだ。
つまり、男女の仲は、本人たちの深層心理によって状況が変化するという事なのだ。
そのあと、大富豪の娘が失踪したというニュースが新聞で公になると、彼女を見たかもしれないという情報もはいってくる。
一方、警察も密輸業者のチンピラを捕まえていた。
これらのことから判断すると、一概に彼女が死んだとは言えないように思えてくる。
そしてサンドロとクラウディアは彼女の目撃情報をたよりに彼女を探すたびに出る。
理性で判断して彼女をさがさなければならないと、常識にしたがって行動しているのだ。
だが、旅の間、二人の気持ちはどんどん接近する。
その旅は、アンナを見つけるためのものではなく、アンナはいないんだということを確信するための旅になっていく。
その結果、二人の仲はどんどん深くなり、情事を続けながらアンナのイメージは二人の念頭から薄らいで行くのだ。
あるパーティの夜。
友人たちは当然のようにこの新しいカップルをむかえた。
だが、その夜、酔ったサンドロは見知らぬ女を抱いてしまう。
不安の一夜を明かしたクラウディアはそんなサンドロの姿を発見して絶望する・・・。
結局この男にとっては、女なら誰でも良かったのか?
これぞ「愛の不毛」である。
ところで、アンナという女はどこに消えたのか?
モニカ・ヴィッティ扮するクラウディアが彼女を崖から突き落としたのだろうか。
その死体がついに浮かび上がってくるシーンがあれば、「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンと同じだが。
真相は全く明かされないまま、本作は終わる。
本作が60年代のアントニオーニのなかでも最高傑作だと言われている理由は、この常識からかけ離れた男女の行動を描いているところにある。
彼の演出は、複雑で繊細で、きわめて戦略的だ。
原題の「 L'avventura」とは、 「冒険」という意味である。
このタイトルの方が真実のテーマに近い。
こういう映画は、同時期にフランスで起こった「ヌーヴェル・ヴァーグ」と同様、第二次大戦から復活した西欧における「貧困からの脱出後」の、新しい価値の追求の勃興期の作品なのだ。
常識にとらわれない、愛と性の奔放な追求の始まりと言っても良い。
その傾向をいち早く映画化したのが、ミケランジェロ・アントニオーニ監督である。
アントニオーニは、世界三大映画祭の全てで最高賞を受賞している映画監督である。
イタリア映画を代表する巨匠だ。
彼の「愛の不毛三部作」とは、以下の三つだ:
・『情事』(1960年)
・『夜』(1961年)(マルチェロ・マストロヤンニ、ジャンヌ・モロー、モニカ・ヴィッティの共演)
・『太陽はひとりぼっち』(1962年)(アラン・ドロン、モニカ・ヴィッティの共演)
本作の成功のカギは、なんといってもヒロインを演じたモニカ・ヴィッティの存在だ。
彼女は、その物憂げな寂しそうな表情が特徴だが、本作では女として認められ、求婚までされるという役柄で、いつもよりは明るい表情で、色香満々の肢体も飛び切り魅力的だ。
この人は、実は1960年代を通して監督のアントニオーニとは公私ともにパートナーであった。1968年にはアントニオーニからプロポーズされたようだが、結婚することはなかった。
やはりヒット映画の多くは監督とヒロインとの公私にわたる深い関係がその背景にあるのだ。
「愛の不毛三部作」は、すべてこの二人による大ヒット作だ。
この映画は、Amazon Primeで動画配信中: