「さすらい」
(原題:Il grido)
1957年7月14日公開。
ロカルノ映画祭評価家大賞受賞。
キネマ旬報第3位。
脚本:エンニオ・デ・コンチーニ、エリオ・バルトリーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ
監督:ミケランジェロ・アントニオーニ
キャスト:
スティーヴ・コクラン:アルド
アリダ・ヴァリ:イルマ
ベッツィ・ブレア:昔の女・エルヴィア
ドリアン・グレイ:ガソリンスタンドの女・ヴィルジニア
リン・ショウ:娼婦・アンドレイーナ
あらすじ:
アルド(スティーヴ・コクラン)は、北イタリアの寒村に住む労働者である。
彼は近くの精糖工場に勤め、イルマ(アリダ・ヴァリ)という女と同棲して七年になる。
二人の間には女の子があるが、イルマはなぜか正式の妻になろうとしなかった。
ある日、イルマのもとへオーストラリアのシドニーで働いていた夫の死亡通知が届いた。
だが彼女の心には、アルドではない別の男への思慕が芽ばえていた。
アルドは、イルマの愛情を取りもどそうと努力した。
しかし、彼女の心は戻らなかった。
ついに彼は娘をつれて家を出た。
目的も慰めもない放浪の旅がはじまった。
七年前、アルドが愛したことのあるエルヴィア(ベッツィ・ブレア)を訪ねた。
だが、イルマが忘れられず、長く居ることは出来なかった。
父娘はハイウェイのかたわらにあるガソリン・スタンドまでやって来た。
そこには、老父の面倒をみながら、一人でスタンドを切り盛りする若い精力的な女ヴィルジニア(ドリアン・グレイ)がいた。
アルドとヴィルジニアは急速に接近し、アルドはガソリン・スタンドになくてはならぬ男になった。
しかしヴィルジニアは娘を邪険にするので、アルドは仕方なく娘を一人で故郷に帰した。
だが、ここでもアルドはイルマの思い出に心を悩ませた。
結局ヴィルジニアの手をふり切ってまた旅に出た。
再び放浪生活がはじまった。
彼はその日その日を送るにすぎなかった。
ある時、彼は河岸の小屋で、無邪気なアンドレーナ(リン・ショウ)という肺病の女に出会った。
彼女は、彼と一緒に泥沼のような生活から浮び上がろうとした。
しかしアンドレーナが体を売って金を得ていることを知ったアルドは、彼女の元を去っていった。
アルドの足は本能的に、自分の村へ向かった。
そうして彼は真直ぐにイルマの家に行った。
そっと家の中を覗くとイルマは、彼の留守中に生んだ赤ん坊に湯を使わせていた。
すべては終わった。アルドは放心したように精糖工場の塔に登って行った。
眼下にはポー河が延び、田園が果てしなく広がっていた。
アルドの姿をみとめたイルマが、彼の後を追って来た。
アルドは塔の真下のイルマをみた。
彼の眼には涙があふれていた。
突然、彼の体が揺れた。
アルドの体は地上に落ちた。
あたりにイルマの絶叫が響いた。
コメント:
この映画は、イタリア北部のポー河流域にある小さな村を舞台にした悲劇である。
原題の「Il grido」は、「叫び」という意味。
日本語タイトル「さすらい」の方がこの作品のイメージに合っている。
全身から茫漠ととした喪失感を漂わすスティーヴ・コクラン、アリダ・ヴァリの役にはまった好演とともに、ミケランジェロ・アントニオーニならではのモノクロームの階調を活かした陰影豊かな映像世界が心に残る。
スティーヴ・コクランは、「荒野のガンマン」などで知られるアメリカ出身の俳優。
ミケランジェロ・アントニオーニは、イタリアを代表する映画監督である。
まさに「さすらい」というタイトル通り、失われた愛を求めてあてどなく彷徨する中年男のやるせない心情が、画面からヒタヒタと横溢するニヒリスティックな人間ドラマだ。
女心と秋の空に失意し、心の虚無を埋めるべくさすらいの旅に出た男の物語で、虚無を埋める女を求めつつも彼女の代わりとはならず、町に戻って彼女の新生活を垣間見て自死を遂げてしまう。
男の内縁の妻が子供ともども男と別れ、若い男を選んだ理由については語られず、男同様、観客もその疑問から投げ出され、もやもや感を引き摺ったまま作品を見終わるという点で精神体験型の映画といえる。
ただ、男女間の愛の不条理をこれがリアリズムだと提示され、これこそが愛の不毛だと語られても、それをそのまま受け入れてニヒリズムに陥るしかなく、せめて不条理な愛の深層、愛の不毛の形而上学について語ってくれないと、主人公の男同様、高いところから身を投げるしか解決策はないのだが。
仕事を辞め娘と共に女の家を出て、元婚約者、ガソリンスタンドの未亡人、若い娼婦を転々とする姿をただ記録映画のように追うにしては、男の苦渋。
その中で、母に捨てられ父のお邪魔虫となる娘ロジーナを演じるMirna Giradiの寂しさが良く描かれていて、一人遊びをする様子がいじらしい。
最終的には娘は母に引き取られるようだ。
人生の不条理を描いている作品としては、極めてレベルの高いものになっていると言えよう。
これが、ミケランジェロ・アントニオーニの世界だ。
だが、日本人の世界でこういうストーリーはありえないのではないか。
完全に女性たちに遊ばれて、最後は全てに絶望した主人公が自殺しているという。
もしかすると、イタリア人の世界では、女性が強すぎるのではなかろうか。
女性が勝手に好きになって、勝手に男を替えているのかも。
イタリア映画をレビューしてきて、気づいたことがある。
イタリア映画界では世界的に有名な女優が何人も生まれている。
ソフィア・ローレン、クラウディア・カルディナーレ、ジーナ・ロロブリジータ、モニカ・ヴィッティ、アリダ・ヴァリ、モニカ・ベルッチ、など。
それに引き換え、男優で世界的に有名なのは、マストロヤンニくらいだ。
この差は、何だろう?
やはりイタリアという国が男性優位社会ではなく、実質的に女性が牛耳っているのかも知れない。
このテーマは、映画レビューとは並行して研究して行きたい、新たな課題だ。
この映画は、YouTubeで全編無料視聴可能。
(英語字幕付き)