「道」
(原題:La Strada)
1954年9月22日イタリア公開。
1957年5月25日日本公開。
大道芸人ザンパノと白痴の女ジェルソミーナの旅を描いた感動作。
受賞歴:
1954年 ヴェニス国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞
1956年 ニューヨーク映画批評家協会最優秀外国映画賞
1956年 アカデミー賞 外国語映画賞
1957年 第8回ブルーリボン賞 外国作品賞
脚本:フェデリコ・フェリーニ、エンニオ・フライアーノ、 トゥリオ・ピネッリ
監督:フェデリコ・フェリーニ
出演者:
ジュリエッタ・マシーナ、 アンソニー・クイン、 リチャード・ベースハート、 アルド・シルヴァニ、 マルセーラ・ロヴェーレ
あらすじ:
貧しい上に少々頭が足りない娘・ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)は、オートバイで旅まわりをする曲芸師・ザンパノー(アンソニー・クイン)の助手となって旅に出た。
ザンパノーの呼びものは、胸の力で鎖を切ること。
それに疑い深く、狡猾と欲情にこりかたまった男である。
彼はさっそく暴力によってジェルソミーナを妻にし、金ができれば他の女を追いかけまわしている。
ジェルソミーナのやさしい心も彼には通じない。
脱走してもつかまってしまう。
ちょうどその頃、二人は小さな曲馬団に参加した。
ところが、その一団にいる若い綱渡りイル・マット(リチャード・ベースハート)と馬が合わない。
彼は人々から「キ印」と呼ばれている風変りな青年だ。
本能的に、彼はザンパノーが気にくわないのだ。
しかしジェルソミーナは、この「キ印」がひくヴァイオリンの哀しいメロディに引きつけられ、彼と親しく口をきくようになる。
「キ印」は彼女に、この世のどんなつまらないものでも、役に立つ時があるのだ、と語った。
頭の足りないジェルソミーナも、この言葉には胸をうたれた。
自分の運命はザンパノーと共にある……。
「キ印」とけんかし、再び旅に出たザンパノーについて、彼女も苦しい日々を送りつづける。
ところがある日、途上でザンパノーと「キ印」は顔をあわせた。
そしてザンパノーは、怒りのあまり「キ印」を殺してしまった。
誰も見てはいない。ザンパノーのオートバイは旅から旅へと逃避行をつづける。
しかしこの事件はジェルソミーナに大きな打撃を与えた。
昼も夜も泣き通しである。
ついに、もてあましたザンパノーは、雪の埋もった山道に、彼女を棄てて去った。
それから数年後、年老いたザンパノーは、ある海辺の町で、ジェルソミーナが好んで歌った「キ印」のヴァイオリンのメロディをきいた。
聞けば、四、五年前この町で病死した気違い娘が、いつもこのメロディを聞かせていたという。
その夜、酒に酔ったザンパノーは、海浜に出て、はじめて知る孤独の想いに泣きつづけるのであった。
コメント:
この映画は、イタリアの名匠・フェデリコ・フェリーニ監督の代表作の一つ。
フェリーニの作品の中では、最後のネオレアリズモ映画といわれる。
この監督は、戦後のイタリア映画界における名監督として多くの作品を世に出した。
代表作は、『青春群像』(1953年)、『道』(1954年)、『カビリアの夜』(1957年)、『甘い生活』(1960年)、『8 1/2』(1963年)、『魂のジュリエッタ』(1964年)、『サテリコン』(1969年)、『フェリーニのアマルコルド』(1973年)。
原題の「La Strada」とは、「道」のこと。英語の「Steet」である。
日本語タイトルも同じ。
主人公の二人が巡るイタリア各地の道を意味しつつ、人生を道にたとえているのかも知れない。
映画の舞台となった海辺の街と風景は、フェリーニ監督自身の育った街・リミニでの体験からきている。
そこで見たサーカスや女と海と行列をスクリーンに登場させた。
旅芸人のザンバノ(アンソニー・クイン)に経緯はわからないが亡くなった姉の代わりに助手の女道化師として買われ土佐周りをすることになった娘ジェルソミーナ。
オートバイにつながれたテントで衣食を共にしながら旅する二人一座。
ザンバナの浮気性で女好き。
その性格はフェリーニ監督の性格そのままだという。
旅を続ける中で本当に夫婦のような思いにいたるジェルソミーナ。
その配役として、フェリーニの実の妻である女優・ジュリエッタ・マシーナを据えた。
役柄は、表面的にはコケティッシュであるが、観念的な思いを込める素晴らしい演技を披露する。
その陰影は、女チャップリンと言ってもいい。
旅の途中で「キ印」の芸人・イル・マットを誤って殺害してしまい、死体を隠蔽する。
それを平気なザンバノを許せないジェルソミーナはうつに落ち込む。
その場面は、映画製作の途中で悩みうつ状態に落ち込んだ監督を表現しているようだ。
自分の存在価値や居場所に気づき、犯した罪を深く後悔するように変化したザンバナ。
罪を悔いると言う伝統的なカトリックと密接につながる。
ニーノ・ロータの曲「Tema della Strada」。
この素晴らしい調べをぎこちないジェルソミーナが演奏するシーンには泣ける。
本作のストーリーは、道化師たちの悲哀が展開し、破天荒な監督フェリーニの人生が反映されている。
同じネオレアリズモの映画監督であるビスコンティは伯爵貴族であったが、フェリーニは少年時に神学校を脱走してサーカス小屋に逃げ込んで連れ戻されたり、10代で駆け落ちをしたり、ローマで放浪生活をして詐欺師にまでなっていた過去があるという。
家族主義やローマ・カトリックの色濃い国家イタリアで生まれ育ったフェリーニ監督の著書『私は映画だ / 夢と回想』(1978年)に、映画『道』に関する次のような記述がある。
- 近代人としての私たちの悩みは孤独感です。そしてこれは私たちの存在の奥底からやってくるのです。どのような祝典も、政治的交響曲もそこから逃れようと望むことはできません。ただ人間と人間のあいだでだけ、この孤独を断つことができるし、ただ一人一人の人間を通してだけ、一種のメッセージを伝えることができて、一人の人間ともう一人の人間との深遠な絆を彼らに理解させ —— いや、発見させることができるのです。
- まったく人間的でありふれたテーマを展開するとき、私は自分で忍耐の限度をはるかに越える苦しみと不運にしばしば直面しているのに気づきます。直観が生まれ出るのはこのようなときです。それはまた、私たちの本性を超越するさまざまな価値への信仰が生まれ出るときでもあります。そのような場合に、私が自分の映画で見せたがる大海とか、はるかな空とかは、もはや十分なものではありません。海や空のかなたに、たぶんひどい苦しみか、涙のなぐさめを通して、神をかいま見ることができるでしょう —— それは神学上の信仰のことというよりも、魂が深く必要とする神の愛と恵みです。
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