「ストロンボリ、神の土地」
(原題: Stromboli, terra di Dio)
1950年10月8日公開。
ネオレアリズモの典型的な作品。
意気投合したロベルト・ロッセリーニとイングリッド・バーグマンが創り上げた映画。
脚本:セルジオ・アミデイ、G・P・カレガリ、アート・コーン、レンツォ・チェザーナ
監督:ロベルト・ロッセリーニ
キャスト:
- カーリン:イングリッド・バーグマン
- アントニオ:マリオ・ヴィターレ
- 司祭:レンツォ・チェザーナ
- 灯台守:マリオ・スポンゾ
あらすじ:
第二次大戦が終わって、ローマの難民収容所には戦火で家を失った人々が、すさんだ心を抱いて幾百人となく収容されていた。
そのなかでいつもふさぎこんでいた一人の女がいた。
彼女の名前は、カリン・ビオルセン(イングリッド・バーグマン)。
彼女は、リトアニアからイタリアに密入国してきたのだ。
彼女は、アントニオ(M・ヴィターレ)というシシリー島出身の漁夫だけを話相手にしていた。
アントニオは、いつか激しくカリンを恋したが、カリンの望みは収谷所を出て自由の国アルゼンチンへ行くことだけであった。
しかし彼女のアルゼンチン行きの旅券は下附されず、夢破れたカリンはアントニオとの結婚に同意した。
つつましい結婚式を挙げた二人は、エルオ群島の北端ストロンボリに住むことになった。
そこは島の中央に巨大な火山のある荒れた漁村で、島人たちは他国ものに全く冷めたかった。
カリンにとって日々の生活は収容所より辛いものに思われ、島を出たいとアントニオにせがんたが、彼は自分にとって故郷であるこの島を立ち去る気持はまるでなかった。
カリンは島でただ一人親しくしている牧師(R・チェザーナ)の助けをかりて島を脱出しようとしたが、牧師は彼女の誘いにのらなかった。
自棄になって行ったカリンは、美男の燈台守(M・スポンゾ)と知り合い、彼との火遊びを楽しんだが、これを知ったアントニオは激怒した。
一年中で島が一番活気をみせるまぐろの漁期に入ったころ、カリンはアントニオの子を宿した。
アントニオは驚喜した。
そのとき島の火山が大爆発をおこした。
島人たちは舟で海上に難を避け、カリンは再びアントニオに島を去ることを迫ったが、彼は爆発のおさまった島にもどるとカリンを家にとじこめまた海へ出て行った。
カリンは燈台守にたのんで二人で島をぬけ出すことにした。
山向うの港へ向う途中、火山のガスと噴煙に身重な体をいためつけられたカリンは、遂に昏倒した。
一夜明けて、噴火はおさまり、輝く陽光にカリンは目覚めた。
彼女は生れる子供のためにも夫の許へ帰るべきだと悟り、すべての迷いから目覚めた思いだった。
彼女はアントニオの住む麓へと山を降りて行った。
(ストロンボリ島)
コメント:
舞台となるストロンボリ島の所在地はこちら:
この映画が作られることになったきっかけは、女優・イングリッド・バーグマンが監督・ロベルト・ロッセリーニに出した手紙である。
バーグマンはロッセリーニの作品を賞賛し、一緒に映画を作りたいと手紙に書いたことであった。
その後、二人は出会い、共同プロダクション「ベリット・フィルム」を設立した。
第二次世界大戦後、リトアニアからイタリアにやってきたカーリンは難民キャンプから出るために、漁師のアントニオと結婚する。
二人はアントニオの故郷ストロンボリ島で新生活を始めるが、排他的な島民と頻発する火山の噴火にカーリンは精神的に追い詰められる。
カーリンは島を脱出することに決め、スーツケースを持って家を出る。山を越えようとするが、頂上の噴火口で人知を超えた大自然を目の当たりにする。
リトアニアというと、ロシアの属国のように思えるが、フィンランド、エストニア、ラトビアなどとともにバルト海東岸に位置する国の一つである。
バルト三国の中では最も南に位置する。ソビエト連邦の崩壊に伴い独立を回復後、2004年に欧州連合(EU)そして北大西洋条約機構(NATO)に加盟、通貨は2015年よりユーロ導入、2018年に経済協力開発機構(OECD)に加盟した。
イングリット・バーグマンは、1915年8月29日にスウェーデンのストックホルムで生まれ、スウェーデン王女イングリッド・アヴ・スヴェーリエにちなんでイングリッドと名付けられた。
だが、王室とは無関係だ。
父親はスウェーデン人ユタス・ベリマンで、母親はドイツ人フリーデル・アドラー・ベリマン。
バーグマンは3歳のときに母親を、13歳のときに芸術家・カメラマンだった父親を失った。
父親の死後バーグマンは叔母に引取られたが、この叔母も心臓合併症のために6カ月後に死去してしまう。
そしてバーグマンは5人の子持ちの叔母フルダと叔父オットー夫妻の家に身を寄せた。
バーグマンにはエルザ・アドラーという名前の叔母もおり、この叔母が11歳のバーグマンに生母フリーデルにはおそらく「ユダヤ人の血が混じっている」ことを最初に告げた人物である。
ただし父ユストは結婚前からこのことを知っていた。
エルザは、バーグマンがもしこの血筋を他人に話すようなことがあれば「ちょっと厄介なことになるかもしれない」と忠告している。
オーディションに合格したバーグマンは国からの奨学金を受け、王立ドラマ劇場付属の演劇学校へ入学した。
この演劇学校は、数年前までグレタ・ガルボが同じような奨学金を得て学んでいた学校でもあった。
バーグマンは入学した数カ月後に、ジークフリード・シーウェルツの戯曲『犯罪』に出演している。
しかしながらこのバーグマンの行動は、演劇学校の「慣例とは全く相容れない」ものだった。
この演劇学校では、少なくとも3年間演技を学んでからでないと外部の作品に出演してはならないという不文律があったためである。
バーグマンは最初の夏休みにも映画スタジオからの仕事を受けた。
そして一年後に、映画女優に専念するために通っていた演劇学校を退学した。
退学後にバーグマンが得た最初の出演作は1935年に公開された『ムンクブローの伯爵』である。
その後バーグマンは、1941年にジョーン・クロフォード主演で『女の顔』という題名でリメイクされることになる『女の顔 』(1938年)の主役アンナ・ホルムを始め、12本のスウェーデン映画に出演したほか、ドイツ映画の『4人の仲間(1938年)』にも出演している。
第二次世界大戦が勃発したときにバーグマンは、ドイツで『4人の仲間 』に出演したことを「間違った選択だったと自責の念にかられ」るようになった。
バーグマンの伝記作家の一人シャーロット・チャンドラーは2007年の著書で、バーグマンはナチスを「一過性の異常な状態で、まじめに受け止めるにはあまりに馬鹿げている」と考えており、ドイツが戦争を始めることはありえず「ドイツの良識派が戦争を容認するはずがない」と信じていたとしている。
さらにチャンドラーは「イングリッドは終戦時にドイツにいたことについて生涯にわたって罪悪感を感じており、ナチスの絶滅収容所を誰かと訪れることに恐怖感を抱き続けていた」と書いている。
スウェーデンで最後の映画に出演した後、1941年にバーグマンは『四人の息子』、『天国の怒り』、『ジェキル博士とハイド氏』の3本のアメリカ映画に出演し、どの作品も大きな成功を収めた。
翌1942年には、現在でもバーグマンの代表作と目されている『カサブランカ』でハンフリー・ボガートと共演した。
『カサブランカ』の舞台はナチスの影響力が及ばない中立地帯であるフランス領モロッコのカサブランカで、バーグマンはポール・ヘンリードが演じた反ナチス地下組織の指導者ヴィクター・ラズローの妻である美しいノルウェー人女性イルザ役を演じた。
バーグマンは1943年に、自身初のカラー映画作品となる『誰が為に鐘は鳴る』にマリア役で出演し、初めてアカデミー主演女優賞にノミネートされた。
『誰が為に鐘は鳴る』は、アメリカの文豪アーネスト・ヘミングウェイの同名小説『誰がために鐘は鳴る』を原作とした映画である。
原作の映画化権がパラマウント映画に売却されたときに、原作者のヘミングウェイは「この役を演じるのはバーグマン以外にありえない」と言い切った。
ヘミングウェイはバーグマンと面識はなかったが、アメリカでの初主演作『別離』でバーグマンのことを知っていたのである。
数週間後この二人は顔を合わせ、バーグマンのことを理解したヘミングウェイは「貴女はマリアだ!」と叫んだ。
バーグマンは1950年に本作『ストロンボリ』に主演し、この作品の撮影中に不倫関係となった監督ロベルト・ロッセリーニとのスキャンダルが原因でハリウッドを離れ、ヨーロッパへと戻った。
そして『ストロンボリ』が公開されたのと同じ月の1950年2月2日に、バーグマンとロッセリーニの間には息子ロベルティーノが生まれている。
ロベルティーノが生まれてから一週間後にバーグマンはリンドストロームと離婚し、メキシコでロッセリーニと再婚した。
1952年6月18日には双子の娘イゾッタ・イングリッドとイザベラが生まれた。
しかしながら1957年にバーグマンとロッセリーニは離婚した。
翌1958年にバーグマンは富裕なスウェーデン貿易商一家出身の演劇プロモータのラルス・シュミットと結婚したが、この結婚も1975年に破局している。
とにかく、恋多き女であり、映画の世界に生きた名女優であった。
この映画は、今ならYouTubeで全編無料視聴可能。
イタリア語では何を言っているか分からないが、英語版のエンディングシーンを見ると、少し理解出来る。
それがこちら: