「静かなる決闘」
1949年3月13日公開。
原作は菊田一夫の戯曲『堕胎医』。
青年医師の苦悩を描いたヒューマンドラマ。
1949年キネマ旬報ランキング第7位。
原作 : 菊田一夫・戯曲『堕胎医』
脚本:黒澤明・谷口千吉
監督:黒澤明
キャスト:
- 藤崎恭二:三船敏郎
- 松木美佐緒:三條美紀
- 藤崎孝之輔:志村喬
- 中田龍夫:植村謙二郎
- 野坂巡査:山口勇
- 峯岸るい:千石規子
- 中田多樹子:中北千枝子
- 骨董屋:宮島健一
- 老兵:佐々木正時
- 巡査:泉静治
- アッペの父:伊達正
- 係長:宮島城之
- 衛生係長:宮崎準之助
あらすじ:
藤崎恭二(三船敏郎)は軍医であった。
前線の野戦病院に次から次と運び込まれる負傷兵や患者。
恭二は休む暇もなく手術台の側に立ち続けねばならなかった。
陸軍上等兵・中田(植村謙二郎)は下腹部盲腸で一命が危ないところを、恭二の心魂こめた手術が成功してとりとめた。
ところが中田は相当悪性の梅毒であった。
恭二はちょっとした不注意のため小指にキズを作り、それから病毒に感染したのであった。
敗戦後、恭二は父親の病院で献身的に働いていた。
だが、薬品のない戦地で、恭二の病気は相当こじれていた。
父にも打ち明けず、彼は深夜ひそかにサルバルサンの注射を打ち続けていた。
思わしい効果は現れて来なかった。
彼には許婚者・松木美佐緒(三條美紀)という優しい女性があった。
彼女にも無論病気の事は話してなかった。
復員後すっかり変わってしまった恭二に、美佐緒はどうしても納得しかねる気持ちがあった。
六年間も待ちつづけた恋しい人だったのに。
まるで結婚の事は考えていない様子の恭二には、隠している事があるに違いないのだ。
彼女は根ほり葉ほり聞きだそうとしているが、一ツの線からは一歩も踏み込ませようとしない。
ある日、藤崎が自分の病気の秘密を父親に告白しているところを、見習い看護師の峰岸るい(千石規子)に立ち聞きされてしまう。
峰岸は元ダンサーで暗い過去を持ち、藤崎の日頃の誠実な行動と発言に反感を抱いていた。
その後も藤崎は己の病と闘いながら、訪れる患者に対しては黙々と治療を続けていく。
一方、秘密を聞いたことで藤崎に対するわだかまりが解けた峰岸は、人間的に少しずつ成長していくのであった。
そんな折、藤崎は偶然元患者の中田と再会し、中田が梅毒を放置したまま結婚し、近々子供が生まれることを知る。
コメント:
軍医中の手術で患者から梅毒を移され、戦後はそれを親にも職場にも婚約者にもひた隠し一人で悩み続ける青年医師。
ところが次第に周りにバレ始める。
梅毒によって人生が変わっていく様を若い三船敏郎がサスペンス風に好演。
初々しい三船敏郎が新鮮だ。
本作は、三船敏郎のための”アテ書き”でもあるといわれている。
アテ書きとは、演じる俳優をイメージしながらキャラクターを作っていくこと。
前作「醉いどれ天使」でヤクザを演じた三船はそれまでも同様の役が多かったため、芸域を広げさせたいという黒澤の親心で、倫理観の強いインテリの役を用意したという。
三船はその巨匠の期待に応え、自己の欲望と医者としての良識の葛藤に苦しみながらも、医者としてのヒューマニズムを優先させる若き医師を好演している。
独特の男臭さを抑え、端正な二枚目で好感あふれる青年の姿だ。
タイトルの『静かなる決闘』というワードは、何を意味しているのだろうか。
どうやら三船敏郎が演じる主人公・藤崎医師の心の中で繰り広げられる欲望vs善性の闘いを意味しているようだ。
梅毒に冒された自分の肉体を抱えて、許嫁との結婚を諦めた藤崎の悩める心と、それを超越した献身的な医者としての気高い行動。
この静かなる闘いを、かくも情感豊かに描き出した本作の強い発信力に圧倒される。
エンド近くで、「医者の中には、時としてああいう聖者がいるもんだ」と藤崎を称える人に対して、志村喬が扮する藤崎の父がこう言う。
「あいつは自分より不幸な人間のそばで希望を取り戻そうとしてるだけですよ」
この志村喬の感情を抑えた静かな演技も、この映画のテーマを象徴しているようだ。
この作品の原作となっているのは、菊田一夫が書いた『堕胎医』というタイトルの戯曲である。
これは、名優・千秋実が主宰していた劇団薔薇座によって、1947年(昭和22年)10月から日劇小劇場で上演されていた演劇の台本である。
配役は千秋が藤崎役、千秋夫人の佐々木踏繪が峯岸役、高杉妙子が美佐緒役を演じ、演出は千秋の岳父である佐々木孝丸が担当した。
黒澤明は偶然その舞台を見て、それに感動したことから本作の企画が行われたのであった。
さらに黒澤明は、これをきっかけに千秋実を俳優として気に入り、後の黒澤映画の常連俳優として採用し続けるのである。
当時、黒澤が所属する東宝は第3次東宝争議によって映画撮影が困難になっていた。
黒澤は山本嘉次郎、谷口千吉、本木荘二郎らと映画芸術協会を設立して東宝を脱退し、他社での製作を余儀なくされた。
その第1作が本作であり、以降『野良犬』『醜聞』『羅生門』『白痴』を他社で撮っている。
菊田一夫の戯曲「堕胎医」という作品自体は、梅毒治療の教育目的で書かれているわけではなく、そこには戦争によって修復不可能なまでに破壊されてしまった人間が戦後をいかにして生きるべきかという問題が問われている。
菊田一夫ならではの世界がそこにはあるのだ。
主人公は戦争によって肉体的に取り返しの付かない傷を受ける。
それは目に見えないが彼の肉体を深く蝕み、それによって最終的には彼の精神すらも破壊してしまう。
彼は戦争の犠牲者なのだ。
これは劇中に、戦争で片腕を失ってしまった元町工場の職人というのが出てくるのと同じだ。
戦前は鍛えた技術で人並み以上に働いていた男が、戦争で修復不可能な肉体的傷を受けて、戦後は死を考えるまでに追い詰められるようになる。主人公も同じく死を考える。
だが彼は医者であり、生命尊重の産婦人科医だ。
自ら死を選ぶということができない彼は、金がなくて医者にかかれない貧しい人たちのために医療奉仕を行うことで、少しずつ自分をすり減らしていく。
行き着く先は発狂なのだが、彼は医者として、自分がいずれ発狂して廃人になることを十分知った上で生きているわけだ。
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