イギリス映画ベスト100 第48作 「トプシー・ターヴィー」日本文化を取り入れオペラは大成功! | 人生・嵐も晴れもあり!

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「トプシー・ターヴィー」

(原題:Topsy-Turvy

 

Topsy-Turvy - Wikipedia

 

「トプシー・ターヴィー」全編(字幕なし)

 

1999年9月3日公開。

日本未公開。

日本文化を描いた新たなオペラの創作模様を描く作品!

 

監督・脚本:マイク・リー

 

キャスト:

ジム・ブロードベント:劇作家のW・S・ギルバート
アラン・コーデュナー:作曲家のアーサー・サリヴァン
ロン・クック:プロデューサーのリチャード・ドイリー・カルテ

 

Topsy-Turvy (1999) - IMDb

 

あらすじ:

1884年、ロンドン。

それまで数々の人気喜歌劇を手掛けてきたギルバートとサリヴァンだったが、期待の最新作は“マンネリ”と厳しい評価を受けてしまう。

1884年1月にサボイ劇場で行われた『プリンセス・アイダ』の初日の夜、作曲家のアーサー・サリバン卿は腎臓病を患っていて、指揮するために劇場に行くのがやっとだった。

サリヴァンはもう喜歌劇の作曲に情熱を失い、芸術性の高い正歌劇へ志向し、コンビは解散の危機に陥る。

彼は休暇で大陸に行き、休息によって健康が改善されることを期待していた。

彼がいない間、サボイ劇場のチケット販売は夏の暑さもあって最低を記録してしまった。

プロデューサーのリチャード・ドイリー・カルテは、サリバンと劇作家のW.S.ギルバートはサボイ用に新しい作品を作成しようとするが、アイダが閉店した時点ではまだ準備ができていなかった。

新しい作品が準備できるまで、カルトはギルバートとサリバンの初期の作品「魔術師」を復活させようとする。 

ギルバートの次のオペラには、新たな変化をもたらす魔法のトローチが登場することになった。

だが、サリバンは、これが以前のオペラで使用された魔法の薬や他の魔法のお守りにあまりにも似ていて、超自然的な装置に依存しているという点で機械的であると感じていた。

サリバンは、英国の音楽界からより本格的な音楽を書くよう圧力を受けているが、「ありそうな」もの、「人間の興味」を伴うもの、そして魔法に頼らないものを切望していると語る。

ギルバートは自分の台本に何の問題もないと考え、新しい台本を書くことを拒否し、対立が生じた。

そんなある日、ギルバートは妻の執拗な誘いに負け、当時大評判を呼んでいた日本展に足を運ぶ。

彼はそこでこれまでに見たこともない異質な文化に触れ、『ミカド』の着想を得るのだった。

そこで購入した刀が書斎の壁から音を立てて落ちたとき、彼は台本セットを書くことを思いついた。

エキゾチックな日本の文化だ。

サリバンはそのアイデアを気に入り、そのために音楽を作曲することに同意した。 

ギルバート、サリバン、カルテの三人は「ミカド」の成功に向けて尽力する。

ショーのリハーサルやストレスの多い舞台裏で、ギルバートは展覧会から日本人の女の子を連れてきて、女性合唱団に日本のやり方での歩き方や扇子の使い方を教える。

主要キャストは、C. ヴィルヘルムがデザインした衣装のフィッティングに反応する。

キャストたちは、ギルバートが提案したタイトルキャラクターの第2幕ソロ「より人間的なミカド」のカットに反対し、劇作家にそれを復元するよう説得したりして、リハーサルは難航する。

だが、ついにミカドがオープンする準備が整った。

いつものように、ギルバートは緊張のあまりオープニングパフォーマンスを見ることができず、通りを歩き回る。

だが、劇場に戻ると、新しいオペラが大成功していることに気づくのであった。

 

Topsy-Turvy' – Gilbert and Sullivan reborn on HBO Max and Criterion Channel  – Stream On Demand

 

コメント:


本作は、1999年のイギリスのミュージカル時代劇映画。「秘密と嘘」でパルム・ドールを受賞しているマイク・リー監督のミュージカルコメディ。

メイクアップと衣裳デザインでアカデミー賞をダブル受賞した。

 

この物語は、ギルバートとサリバンの『ミカド』の初演までの 1884 年から 1885 年の 15 か月間を描いている。

この映画は、劇作家と作曲家の創作上の対立と、さらにいくつかのサヴォイ・オペラの創作につながったパートナーシップを継続するという二人の決断に焦点を当てている。 

 

この映画は、ヴィクトリア朝時代のイギリスの劇場生活を詳しく描いたものとして、芸術的な成功を収めたと考えられている。

映画の中で自ら歌唱する俳優をキャスティングされ、その戦略を高く称賛されている。

 

W・S・ギルバートとアーサー・サリヴァンが1884年から1885年までの15か月間で『ミカド』を完成させる過程が描かれる。

 

日本の展示会の話も、喜歌劇『ミカド』の創作の物語も実話である。

 

ロンドンのナイツブリッジにある日本村は、ビクトリア朝後期の日本文化の展示会で、ハンフリーズ ホールで開催され、1885 年 1 月から 1887 年 6 月まで開催された。万博とは無関係だ。

展示会では、伝統的な建物に似せて建てられた環境で約100人の日本人男女が参加した。 

この展覧会は、数年前から英国で巡回日本展覧会を企画していたタンナカー・ブヒクロサン(1839年 - 1894年)が企画した商業的事業であった。 

 

1850年代に日本が英国との貿易に開放された結果、英国では日本を中世文化として認識していたことが影響し、1860年代から1870年代にかけて日本人が築いてきたあらゆるものに対する英国の熱狂が起こった。

これは特に 19 世紀後半の美的運動の信奉者の共感を呼び、展覧会は非常に人気となり 、開催初期の数か月間で 250,000 人を超える来場者があった。 

この展示会は、伝統的な日本の村を模して建てられ、ハンフリーズ ホール (ナイツブリッジの南、現在のトレバー ストリートの東にあった) 内に完全に収まった。 

 

ギルバートとサリバンがオペラ『ミカド』(1885年)を執筆している間、W・S・ギルバートは展覧会を訪れ、村の日本人たちに日本人の行動の側面をキャストに教えてもらった。 

1885年5月、ホールは一夜にして全焼し、日本人従業員の1人が火災で死亡した。

しかし、ブヒクロサン氏はすぐに、ホールと展示物をできるだけ早く再建すると発表した。

偶然にも、展示会の従業員はすでにベルリンを訪問し、ベルリンで開催される 1885 年の国際衛生展示会に出演することを約束していた。

一方、ホールと村の展示物は両方とも再建され、1885 年 12 月に展示物が「商店が立ち並ぶいくつかの通り… 2 つの寺院とさまざまな独立した偶像、そして素朴な橋が架かったプール」とともに一般公開された。 

 

日本村における日本人女性の姿がこちら:

 

 

展覧会は18か月間続き、1887 年 2 月までに100万人以上の人々がここを訪れたという。

 

 

この映画は、マンネリに陥っていたミュージカル作家たちが、日本文化を採用して新たなオペラの創作に大成功する作品である。

こういう作品が、なんといまだに日本未公開なのだ。

いかに日本がイギリスの芸術界に疎遠であったかを証明する事実だ。

 

まあ、今さら当時の日本映画界の連中を叱っても仕方ないので、彼らがなぜこの映画を無視したか、弁護してみたい。

 

実は、この映画のタイトル「Topsy-Turvy」がまずい。

こんな言葉を知っている日本人は殆どいないだろう。

 

これは、英語ではないのだ。

例の「中英語」だ。

 

「Topsy-Turvy」とは、「混乱した状態」、「カオス」を表す中英語だという。

 

無秩序や混乱の状況を表す「混乱した状態」という用語は 1530 年以来使用されており、現代の耳には独特に聞こえるにもかかわらず、実際には非常にありふれた起源を持っているという。

簡単に言えば、「turvy」は「ひっくり返す」を意味する中英語の単語 terve が転訛したもので、このフレーズはおそらく元々は「top turvy」のようなもので、余分な「-sy」が重複によって追加されたものと考えられるという。 

強調のために音が繰り返される言語現象なのだという。

 

こんな訳の分からないタイトルで日本に持ち込んでも、こりゃ無理だと思ったのであろう。

 

こういう言葉遊びをして一人で喜んでいるのが英国人なのだ。

 

喜歌劇『ミカド』は、1885年3月14日にロンドンのストランドにあるサヴォイ劇場で初演されて、672回上演し、当時の歌劇史上2番目の上演回数を誇り、舞台作品の中でもロングラン作品の1つとなった。

1885年の終演までにヨーロッパやアメリカで少なくとも150カンパニーが上演した。

現在もサヴォイ劇場でしばしば上演されているだけでなく、アマチュア劇団や学校演劇でも演じられている。

様々な言語に翻訳され、歌劇史上最も多く上演される作品の1つとなっている。

 

日本未公開となった、もうひとつの理由は、劇中の喜歌劇「ミカド」の存在を日本政府が認めていなかったという事実だ。

 

日本風の登場人物たちが巻き起こすドタバタ喜劇を通して当時のイギリス政府を風刺した『ミカド』は、一種のジャポニスムまたはオリエンタリズムである。

欧米では初演後2年間のロングランになったが、内容があまりにも日本の天皇を笑い者にしているとして駐英日本大使が上演差し止めを試みたようだ。

だが差し止めは成功せず、1907年の再演時にも抗議したが、聞き入れられず、世界各地で大評判の演目となった。

このヒットにより、「Mikado」という単語が日本の代名詞として広まった。

だが、日本は完全に無視したのだ。

 

当時の「Mikado」のポスターがこちら:

 

 

『ミカド』初日の1885年3月14日に増刷された“Musical World”によれば、ギルバートは、日本を取り上げた理由については自分でもはっきり分からず、身の周りの日本趣味に影響されたとしか語れないと述べている。

その部分で日本刀を「両手でしっかりと握れる剣(double-handed sword, with a grip admitting of two distinct applications of strength)」と形容 している。

 

19世紀のロンドンにあって、西洋式のswordとは片手持ちの daggerやspearを指し、両腕で支える剣は珍しかったのであろう。

この武器とヘンリー 8 世の人物像から「王であり、実際の処刑人でもある人物」 を創造したらしい。

 

絶対権力者でありながら虫も殺せないという矛盾した人物が物語の核であると明言している。 

しかし、これだけ外見的な日本のイメージにこだわっているにも関わらず、プロットそのものには意外なほど日本のイメージが登場しない。 

 

せっかくの機会なので、「ミカド」のあらすじを示すと以下の通り:

 

父・ミカドより意に染まない年増の女性(カティシャ)を妃に迎えるよ う強制された皇太子は、都を逃れて旅芸人ナンキ・プーと名乗り、劇団 の第 2 トロンボーン奏者の職にありつき、ティティプの街で三味線の弾き語りをしている。

彼は街中ですれ違った三姉妹の一人ヤムヤムを見染めた。

ヤムヤムも応じ相思相愛になるが、後見人でやがては彼女と結婚するつもりの仕立屋ココに阻まれる。 

その頃ミカドは男女の色目づかいが見つかると死刑という「いちゃい ちゃ禁止令」を発令した。

(夫婦はもはや色目を使わないので除外する 必要はない、というブラックジョークが挿入されている。)

 

恋を弄んだかど で禁令違反第 1 号になってしまったのはなんとあの仕立屋のココ。

それを聞いて喜ぶナンキ・プーはヤムヤムを迎えにやってきた。

ところが、彼はそこに現れた尊大な大臣プーバーと貴族のピシュ・タシュから驚きの 事実を耳にする。

ココが国の最高執政官に任命され、ほかの大臣はみんな辞めてしまったので残りを全てなんでも大臣プーバーが兼ねることに なったのである。

自分の首を斬ることができないココを死刑の執行官にしてしまえば刑が乱発されることはないので推挙されたのだった。 

しかしココの手元に、都から「ティティプにては、この一年間死刑が 執行されていない。 1 か月のうちに死刑が行われない場合は、ティティ プは街から村に降格され、ココは最高執政官の任を解かれ処刑される」 というミカドのお達しが届く。 

 

一方ナンキ・プーはヤムヤムと結婚できないなら死んだ方がましと死を決意する。

これを知ったココは保身のため「処刑してやるから自殺をするな」という。

ナンキ・プーは処刑される条件として 1 ヶ月間ヤム ヤムと結婚生活を送ることを望んだ。

これをココが渋々認め、喜ぶ一同。 

そこへ皇太子を探しに来たカティシャがナンキ・プーの正体を明かそうとするが、民衆の声にさえぎられる( 1 幕)。 

 

ヤムヤムが婚礼の準備をしている。

つかの間の幸せを歌っているとコ コが入ってきて、斬首される男の妻は生き埋めになる法律があったと告げる。

ヤムヤムは結婚を渋りだし、ナンキ・プーもそれなら今すぐ自殺 する方がいいと言い出す。

愛し合う二人の姿が気の毒に思えてきたココ は「処刑した体」にして二人を逃がす。

ミカドが登場し、体よくナンキ・ プーの処刑を執行したと報告するココとプーバー。

しかしミカドは失踪した皇太子の安否を気遣って、やっとのことで所在を突き止めやってきたのだった。

ナンキ・プーの正体が皇太子であることを明かす。

皇太子殺害の罪で釜茹での刑が言い渡されるココら。

舞い戻って いたナンキ・プーが、ココがカティシャと結婚するなら出て行って健在を示し、ココらの命を救おうと駆け引きに出る。

ココはしぶしぶ承諾。 

ココとカティシャ、ナンキ・プーとヤムヤムの二つのカップルが成立し、 めでたしめでたしで幕となる( 2 幕)。 

 

2 年に及ぶロングランを続けることとなる作品にも関わらず、初演当時の劇評はあまり好意的ではなかった。

登場人物の役柄についても、これまでのサヴォイ・オペラの人物の焼き直しが多く、真新しさに欠けると評している。

ところが、批評家たちは共通して、それでも舞台は大成功で、 その要因はひとえに舞台の「日本らしさ」であり、何よりサリヴァンの音楽であると述べている。

物語に「日本らしさ」は組み込まれていないからである。

ただし、外見上の架空の「日本らしさ」を考案したことこそ、ギルバートの手腕なのであり、上演成功の鍵なのである。

 

ということで、とにかく日本が知らないところで「日本の不思議さ」だけが独り歩きを始めていたということだ。

 

この映画は、今ならYouTubeで全編無料視聴可能(英語)。

この映画における喜歌劇で日本人を如何に演じているか、メイクなどの様子が分かって面白い。

 

この映画は、動画配信、ソフト化製品ともに見当たらない。