「舞姫(1989)」
1989年6月3日公開。
森鴎外の代表作を映画化。
原作:森鴎外「舞姫」
脚本:田村孟、ハンス・ボルゲルト、 篠田正浩
監督:篠田正浩
キャスト:
- 太田豊太郎 - 郷ひろみ
- エリス・バイゲルト - リザ・ウォルフ
- 相沢謙吉 - 益岡徹
- 副島和三郎 - 角野卓造
- 谷村武 - 佐野史郎
- 太田清子 - 加藤治子
- 天方孝義伯爵 - 山﨑努
- ルイーゼ・フォン・ビューロウ - マライケ・カリエール
- メールハイム騎兵大尉 - クリストフ・アイヒホルン
- アンナ・バイゲルト - ブリギッテ・グロートゥム
- ハーゼ夫人 - イルマ・ミュンヒ
- コッホ教授 - ロルフ・ポッペ
あらすじ:
太田豊太郎は東大医学部を卒業して3年後の明治19年、天皇の命を受け日本の将来を任うべく国費留学生としてドイツへ渡った。ベルリンで豊太郎はコッホ教授に師事するかたわらドイツでの生活を楽しんでいたが、ベルリン駐在武官・副島和三郎の監視は厳しかった。
ある日、豊太郎は散歩の途中で、少女エリスと出会い、恋におちた。
貧しくて父の葬式も出せないエリスに豊太郎は懐中時計を渡し、質屋で金に替えるよう勧めた。
エリスはビクトリア座で踊る美しいプリマドンナだった。
二人の交際を認めたくない副島は豊太郎をミュンヘンへ飛ばそうとするが、彼は免官して民間人となり、ベルリンへ残った。
貧しくも楽しいエリスと彼女の母、そして豊太郎の三人の共同生活が始まった。
豊太郎は新聞記事を書く仕事が認められるようになった。
そんな時、天方伯爵のお伴としてベルリンにやって来た旧友・相沢と再会。豊太郎の免官が原因で母・清子が自殺未遂したことを知らされ、また伯爵の片腕となり日本へ帰国するようにと勧められた。
悩んだ豊太郎は雪の中をさまよい、急性肺炎で倒れてしまう。
その間、エリスは豊太郎の子供を流産してしまい、相沢によって慰謝料が支払われていた。
豊太郎はエリスとの別れと共に帰国を決意したのだった。
コメント:
原作は、森鴎外の代表作『舞姫』。
森鴎外の自伝のような内容になっている、ドイツを舞台にした悲恋の物語だ。
映画を観ると、主人公がエリスというプリマドンナとの恋と、将来の自分の進路とのはざまで悩む場面が際立つ作品になっているが、特に古さは感じられない。
ところが、原作の小説を読むと、全く印象が変わる。
とにかく難解で、古文を読ませられるような感じなのだ。
前半には、主人公が自分の経歴を述べている部分がある。
それがこちら:
余は幼き比より嚴しき庭の訓を受けし甲斐に、父をば早く喪ひつれど、學問の荒み衰ふることなく、舊藩の學館にありし日も、東京に出でゝ豫備黌に通ひしときも、大學法學部に入りし後も、太田豐太郎といふ名はいつも一級の首にしるされたりしに、一人子の我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし。
十九の歳には學士の稱を受けて、大學の立ちてよりその頃までにまたなき名譽なりと人にも言はれ、某省に出仕して、故郷なる母を都に呼び迎へ、樂しき年を送ること三とせばかり、官長の覺え殊なりしかば、洋行して一課の事務を取り調べよとの命を受け、我名を成さむも、我家を興さむも、今ぞとおもふ心の勇み立ちて、五十を踰えし母に別るゝをもさまで悲しとは思はず、遙々と家を離れてベルリンの都に來ぬ。
余は模糊たる功名の念と、檢束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽ちこの歐羅巴の新大都の中央に立てり。何等の光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色澤ぞ、我心を迷はさむとするは。菩提樹下と譯するときは、幽靜なる境なるべく思はるれど、この大道髮の如きウンテル、デン、リンデンに來て兩邊なる石だゝみの人道を行く隊々の士女を見よ。
胸張り肩聳えたる士官の、まだ維廉一世の街に臨めるに倚り玉ふ頃なりければ、樣々の色に飾り成したる禮裝をなしたる、妍き少女の巴里まねびの粧したる、彼も此も目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青の上を音もせで走るいろ/\の馬車、雲に聳ゆる樓閣の少しとぎれたる處には、晴れたる空に夕立の音を聞かせて漲り落つる噴井の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさし交はしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多の景物目睫の間に聚まりたれば、始めてこゝに來しものゝ應接に遑なきも宜なり。
されど我胸には縱ひいかなる境に遊びても、あだなる美觀に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物を遮り留めたりき。
興味がある方は、以下の青空文庫のサイトをご覧あれ:
この小説は、森鴎外自身がベルリンに4年間留学した際に経験したドイツ人女性との恋愛をベースにしているという。
ドイツに留学した主人公の手記の形をとり、ドイツでの恋愛経験を綴っている。
高雅な文体と浪漫的な内容で、鷗外初期の代表作とされる。
森鴎外は、1873年11歳で東京医学校(現東京大学医学部)予科に入学、15歳で本科へ進学し、19歳で卒業。
その後、陸軍に入り、1884年には衛生学の調査及び研究のためドイツへ留学し、1888年に帰国した。
そして、1990年1月に、この小説を発表した。
1888年(明治21年)に鷗外がドイツから帰国した後、ドイツ人女性が鷗外のすぐあとを追って来日して、滞在一月(1888年9月12日 - 10月17日)ほどで離日する出来事があった。
彼女への説得を、鷗外の義弟小金井良精と、鷗外の弟・森篤次郎(筆名三木竹二)が行っていたといわれている。
『舞姫』のストーリーとは異なっており、作中の彼女の「発狂」もフィクションである。
このため、エリスのモデルが実在するとして、モデル探しが行われてきた。
1981年に森鴎外研究者の中川浩一が「ジャパン・ウィークリー・メイル」(1888年当時横浜で発行されていた英語新聞)に記載されていた船舶乗客リストから「Miss Elise Wiegert」(エリーゼ・ヴィーゲルト嬢)が1888年9月12日に横浜港に入港し、10月17日に出航したドイツ汽船ゲネラル・ヴェルダー号の一等船客であったことを発見した。
その後、ゲネラル・ヴェルダー号が寄港した各地の新聞を調べると、Miss Elise Wiegertの名は8回見つかったという。
また、アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルト(Anna Berta Luise Wiegert、1872年12月16日 -1951年、「エリス来日事件」当時15歳)だとする説がある。
また、エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト(Elise Marie Caroline Wiegert、1866年9月15日 - 1953年8月4日、シュチェチン生まれ)とする説がある。
また、このエリーゼの2歳下の妹アンナ・アルヴィーネ・クララ・ヴィーゲルトが1888年に未婚で男子を出産していることから、エリスのモデルはこの妹クララであり、太田豊大郎のモデルと言われる武島務がクララの恋人ではないかという説もある。
森鷗外記念会会長の山崎一穎は、エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトがエリスのモデルであるとする説を次のように評価している(2011年7月)。
- 1981年(乗船名簿の発見)以来、30年を経て、間違いなくその人を特定できたことは大きな発見である。
- エリーゼは帰国した10年後の1898年から1904年までの6年間は帽子制作者としてベルリン東地区ブルーメン通り18番地に居住していたが、このことは小金井喜美子の「文学」掲載中の「帽子会社の意匠部に勤める」と言う言葉と一致する。
- エリーゼ・ヴィーゲルトはユダヤ人ではないことが明確になった。
- 豊太郎とエリスの出会いの教会について従来の説を否定し、新たに「ガルニゾン教会」を特定した。
- エリーゼは来日時に21歳であり、ドイツの法律が21歳を成人と認めているので、親権者の承諾を得ずに海外旅行が可能であることが判明した。
- 人名・地名が「舞姫」中に散見することを改めて知ることができた。エリスの父の職業は仕立物師であるが、エリーゼの母の職業が仕立物師である。また、エリスの母が「ステッチンわたりの農家に遠き縁者あるに」と言うが、ステッチン(=シュチェチン)は、エリーゼの母の故郷であり、エリーゼの出生地でもある。
ということで、エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトという女性が、エリスのモデルかも知れない。
いずれにせよ、森鴎外の膨大な作品群の中で、作者のプライバシーに近い題材で、最もロマンチックなのが、この「舞姫」という作品であることは間違いない。
この映画を筆頭に、これまで何度も映画化、テレビドラマ化されているのだ。
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