「ユメ十夜」
2007年1月27日公開。
上映時間:計110分
夏目漱石の小説『夢十夜』を原作とする映画。
11人の監督(うち一組は共同監督)によるオムニバス作品。
全10話。
プロローグ・エピローグ
- 監督:清水厚
- 出演:戸田恵梨香(女学生)、藤田宗久(夏目漱石)
第一夜
- 監督:実相寺昭雄、脚本:久世光彦
- 出演:小泉今日子(ツグミ)、松尾スズキ(百閒)、寺田農、堀内正美
第二夜
- 監督:市川崑、脚本:柳谷治
- 出演:うじきつよし(男)、中村梅之助(和尚)
第三夜
- 監督・脚本:清水崇
- 出演:堀部圭亮(夏目漱石)、香椎由宇(夏目鏡子)、櫻井詩月(愛子)
第四夜
- 監督:清水厚、脚本:猪爪慎一
- 出演:山本耕史(夏目漱石)、菅野莉央(日向はるか)、品川徹、小関裕太、浅見千代子、市川夏江、渡辺悠、鶴屋紅子、佐久間なつみ、日笠山亜美
第五夜
- 監督・脚本:豊島圭介
- 出演:市川実日子(真砂子)、大倉孝二(庄太郎)、三浦誠己、辻修
第六夜
- 監督・脚本:松尾スズキ
- 出演:阿部サダヲ(わたし)、TOZAWA(運慶)
第七夜
- 監督:天野喜孝、河原真明
- 出演:sascha(ソウセキ(声))、秀島史香(ウツロ(声))
第八夜
- 監督:山下敦弘 脚本:長尾謙一郎
- 出演:藤岡弘(夏目漱石、正造)、山本浩司、大家由祐子、土屋匠、森康子
第九夜
- 監督・脚本:西川美和
- 出演:緒川たまき(母)、ピエール瀧(父)、渡邉奏人
第十夜
- 監督・脚本:山口雄大、脚本:加藤淳也、脚色:漫☆画太郎
- 出演:松山ケンイチ(庄太郎)、本上まなみ(よし乃)、石坂浩二(平賀源内)、安田大サーカス、井上佳子
(第十夜 プレビュー)
あらすじ
- 第一夜
- 『こんな夢を見た。腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が…』
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死ぬ間際の女に「百年待っていて下さい」と自分は頼まれる。
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女の墓の横で待ち始めた自分は、赤い日が東から昇り、西へ沈むのを何度も見る。
-
そのうちに女に騙されたのではないかと自分は疑い始める。
-
その自分の前に、一輪の真白な百合が伸びてくる。
-
いつの間にか百年が過ぎていた。
- 第二夜
- 『こんな夢を見た。和尚の室を退がって、廊下伝いに自分の部屋へ帰ると…』
- 「侍なのに無を悟れていない」と和尚に馬鹿にされた自分は、悟りを開いて和尚を斬るか、悟りを開けず切腹するかの二択を自らに課し、悟りを開くため無についてひたすら考える。
- 第三夜
- 『こんな夢を見た。六つになる子供を負ってる。たしかに自分の子である。…』
- 田圃道を子供をおぶって歩いている。子供は盲目である。あぜ道を行くうち、子供は周囲の状況を次々と当て始め、恐ろしくなった自分は子供を放り出して逃げることを考える。道はいつしか山道へと入り、やがて一本の杉の木の前に辿りついた。すると子供が「御前がおれを殺したのは今からちょうど百年前だね」と言う。殺人を自覚したとたん、背中の子供が急に石地蔵のように重くなった。
- 第四夜
- 『広い土間の真中に涼み台のようなものを据えて、その周囲に小さい床几が並べてある。…』
- 禅問答のような会話をしながら酒を飲んでいる爺さんが一人。河原の柳の下へ行き、取り出した手ぬぐいを蛇に変えると言う。やがて、爺さんは「今になる、蛇になる、きっとなる、笛が鳴る」と言いながら川の中に入っていく。
- 第五夜
- 『こんな夢を見た。何でもよほど古い事で、神代に近い昔と思われるが…』
- 戦に敗れた自分は、敵軍の大将の前に引き出される。大将は鶏が鳴くまで処刑を待ってくれる。それを知ってか知らずか、自分の恋人は馬を駆って陣を目指す。
- 第六夜
- 『運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから…』
- 運慶が仁王像を彫っている。その姿を見物していた自分は、隣の男が「運慶は、木の中に埋まっている仁王を掘り出しているだけだ」と言っているのを聞く。自分でも仁王像を彫ってみたくなり、家にある木を彫り始めるが、何度やっても仁王は出てこなかった。
- 第七夜
- 『何でも大きな船に乗っている。この船が毎日毎夜すこしの絶間なく黒い煙を吐いて…』
- とにかく舟に乗っているのだが、乗っている理由がまったく分からない。不安になり水夫に話を聞くが、要領を得ない。ホールでピアノを弾く女性を見ているうち、むなしくなった自分は甲板から海へと飛び込む。
- 第八夜
- 『床屋の敷居を跨いだら、白い着物を着てかたまっていた三四人が、一度にいらっしゃいと云った。…』
- 床屋に入り、鏡の前に座っていると、鏡の中を様々な人物が通り過ぎてゆく。
- 第九夜
- 『世の中が何となくざわつき始めた。今にも戦争が起りそうに見える。…』
- 母は幼い子を連れ、夫の無事を祈って百度参りに出かける。子供を拝殿に残し、お参りを続ける母。
- 第十夜
- 『庄太郎が女に攫われてから七日目の晩にふらりと帰って来て…』
- 庄太郎は水菓子屋で会った女に崖に連れて行かれ「ここから飛び降りろ」と言われる。拒否した庄太郎に、何万という豚が襲いかかる。
コメント:
原作は、文豪・夏目漱石の幻想短編集『夢十夜』。
1908年(明治41年)7月25日から8月5日まで『東京朝日新聞』で連載された。
現在(明治)を始め、神代・鎌倉・100年後と、10の不思議な夢の世界を綴る。
第一夜、第二夜、第三夜、第五夜の書き出しである「こんな夢を見た」が有名。
漱石としては珍しい幻想文学のテイストが濃い作品である。
これを短編の一作ずつに分けて、それぞれ別の監督・脚本・俳優が創り上げた異色のオムニバス作品。
第一夜:
作家の百けん(松尾スズキ)と妻のツグミ(小泉今日子)は、根津権現裏の家で平穏に暮らしていた。
ツグミは土間の喫茶店で働いており、百けんは机に向かっているが、なかなか筆が進まない。
それどころか、時間がさかのぼっているような感覚を覚える。
やがてツグミは静かに着物を脱いで横たわり、「百年可愛がってくれたんだから、もう百年、待っててくれますか?」と言い残し、消え入るように死んでしまう。
百けんはツグミの言葉を信じて待ち続け、ある時、美しい百合の花が百けんの前で花開く。
百年はもう来ていたのだ。
これが十話の中で一番評価が高いようだ。
小泉今日子が、この「第一夜」に出演している。
妻の転生を待つ男とユリの花に転生した妻の関係性を時間が遡っていくような流れと鈴木清順のパロディのような明治ロマンチシズムを舞台劇の設定で散りばめて実相寺ワールドを展開している。
キョンキョンがユリの花に転生するイメージようだが、メンソレータムの観覧車の逆回転や金魚の生死といった小道具も散りばめて正にユメと言える映画的な面白さに溢れている。
こういうわけの分からない映画こそ、実相寺監督の世界だ。
公開当時の小泉今日子コメントが、あるサイトに掲載されている:
小泉今日子が出演しているのは実相寺昭雄監督による“第一夜”。作家の百間と妻のツグミ、時空を越えた男女の愛が幻想的に綴られていく物語だ。
「夏目漱石の作品をそれほど読んでいるわけではないですが、『夢十夜』は好きな小説で本を持っていたんです。その中でも“第一夜”の夢は特に好きだったので、オファーをもらったときはすごく嬉しかったですね」と小泉さん。撮影に入る前には原作を読み返したほか、「久世(光彦)さんが百間先生(夏目漱石門下の小説家)の話に置き換えて脚本を書かれていたので、内田百間の作品も少し読んだりしました」
と話す。
「吾輩は猫である」、「坊ちゃん」といった、それまでの漱石の作品とは一線を画した「夢十夜」。
ただでさえ異色作とされてきた夢の話が10名の脚本家、10名の監督によってさらにパワーアップされているのだから、その驚きの大きさは想像がつくだろう。
そして、光と影の描写を得意とする実相寺監督の妖艶な世界観について──
「実相寺監督は『こういうふうに演じてください』とおっしゃらない監督なんです。監督の持っている世界観がとても強いので、その中に自然に入り込めたら…という感じでした。久世さんの脚本は原作をさらに上回る幻想世界になっているので、その雰囲気に入り込むこと自体はそれほど難しくはなかったです。ただ、私の演じたツグミという役は人間っぽくならない方がいいのかな、と。感情を表現するというよりも──横たわった頬にあたる光の美しさとか、身体には光があたっているけれど顔は影になっていたりとか、人間っぽさよりも印象に残る画を作りたいと思いました」
実相寺監督の力によって小泉今日子が本来秘めている魅力が引き出された“人間らしさ”を削ぎ落としたツグミ。
そこには新たな小泉今日子の美しさが詰まっている。
また、ツグミとは逆に夫である百間先生(松尾スズキ)は非常に人間っぽく描かれていて、「百間先生の慌てたり驚いたり混乱したりする様がツグミと対照的で面白い」という。
続いて、ツグミ役を演じるうえで挑戦だったことを訊いてみた。
「普段は人間くささを出すというか、赤裸々に感情を表現することが多いけれど、今回のツグミはそれでは演じられないなと思いました。声のトーンや表情で演じるのではなくただそこに佇んでいる──“存在”を意識してみたんです。演じることの基本を改めて実感した瞬間でもありました」
10話のどれもが本当に不思議で、不気味で、面白い夢ではあるが、自身の出演した“第一夜”に続くお気に入りは、「ストーリーと音楽が合っていて好きでした」という松尾スズキ監督・脚本による“第六夜”。
阿部サダヲとTOZAWAのハイテンションなアニメーションダンスで魅せるコメディーだ。
最後に“夢”にちなんで、漱石に負けないくらいの強烈な夢を見たことがあるのかという質問。
「夢は見る方だと思うんですけど──若い頃はよく芸能人がキャスティングされていました(笑)。同級生が芸能人だったり、私が看護婦で患者さんが芸能人だったり、あと突然、恐竜が登場したり。キャスティングが豪華な夢はけっこう覚えているんですよね(笑)」
第二夜:
市川崑の遺作となった作品。
男(うじきつよし)がうす暗い部屋に入って座ると、いつの間にか和尚(中村梅之助)がいる。
そして男は、自分が侍だったことに気付く。
「侍なら悟れぬはずはない」という和尚に挑発され、懸命に悟りを得ようとする侍。
しかし一向に悟りはやってこない。
それでも侍は、時計が次の刻を打つ前に悟りを得て、和尚の首をとろう、それができなければ死のう、と決意する。
そんな侍を嘲笑うかのような和尚に、侍はしだいに殺気を募らせていく。
モノクロの映像に自害用の脇差しのみ朱色でセリフは字幕というスタイリッシュな映像は市川監督ならでは。
第三夜:
ある夏の日。
子どもたちの声も騒々しく、漱石(堀部圭亮)の筆はなかなか進まない。
そればかりか、いいようのない苛立ちを感じていた。
6人目の子を身ごもっている妻の鏡子(香椎由宇)は、その夜、奇妙な話をする。
子どもの頃、地蔵の首を誤って落としてしまい、それ以来、その地蔵の夢を見るようになった。
ところが最近、その地蔵の首を戻す夢を見たというのだ。
そのとき、赤ん坊が目を覚ます。
泣く子をあやすため、漱石は赤ん坊を背負って歩き始め、森の中に入っていく。
不思議なことに、赤ん坊は大人のような口を聞き、次第に漱石は子供を捨ててしまおうと考え始める。
しばらく歩くと地蔵があり、そこで赤ん坊は言う。
「お前が俺を殺したのは、今からちょうど百年前だね」。
そこで漱石は昼寝から目覚め、この悪夢をネタにしようと筆をとる。
ホラーのカテゴリーの中でわかりやすく漱石のエゴイストな面と夫人の神経症的な面を描き、このオムニバス映画の中でよくできた作品といえる。
走る子ども。十年前の自殺未遂。地蔵の首。背中の我が子。
短いながら得体の知れなさはしっかり構築されている。
香椎由宇が鏡子夫人に似ているのは錯覚か。
第四夜:
田舎町に講演にやって来た漱石(山本耕史)。
「町民会館前」でバスを降りたはずが、そこは「面影橋四丁目」だった。
”神隠し”があるというその町では、「見ててみ、見ててみ、蛇になるから!」と叫ぶ老人のあとを、子どもたちが歌いながらついていく。
つられて漱石もあとをつけると、そこはどこか見覚えのある町だった。
やがて少年の頃に出会った、ある少女との淡くせつない記憶がよみがえってくる。
海辺の町にやって来た漱石が、郷愁的で不思議な体験をする。
若い漱石。降り立った駅舎。
迎えの日向はるかは来ていず伝言板の書き込み。
ボンネットバス。面影橋。古い町並み。神隠し。オモヒデ座。
昔の駅、写真館の前、映画館、飛行機。
なかなか映像が良かった。
モノクロフィルムの画面の中に過去が甦る。
貝殻を耳に当てる。刺激の強い幻想。
第五夜:
市川実日子が演じる真砂子が鳴り響く電話の音で目を覚ますと、聞き覚えのある声がこう告げる。
「夜が明けて、鶏が鳴くまで待つ」。
夫の庄太郎の身を案じる真砂子。
しかしリビングには、いるはずのない男と子どもがおり、さらに不気味な姿の天探女(あまのじゃく)が現れる。
真砂子は恐怖のあまり、天探女をゴルフクラブで殴りつける。
そして馬に乗り、夜明けまでに間に合うようにと、庄太郎のもとへ疾走する。
しかし、庄太郎に会うことはかなわなかった。
……目が覚めると、真砂子はリビングにいた。
向かい合わせに、天探女が座っていた。
ホラーっぽいショートストーリー。
馬で駆ける。化け物の正体。
ドラマ性の強い幻想譚。
雰囲気はなかなか。
第六夜:
運慶(TOZAWA)が仁王像の頭(かしら)を彫るというので、見物人が集まってくる。
しかし現れた運慶は、唐突にアニメーションダンスを踊り始める。
それは、木の中に埋まっている形を掘り出すという斬新な彫り方だったのだ。
完成した仁王に、見物人たちは感嘆の声をあげる。
自分にもできるのではないかと思った男(阿部サダヲ)は、家に帰って挑戦してみるが、どの木にも仁王像は埋まっていない。
そして男は、運慶が現在まで生きている理由を知るのだった。
天才仏師・運慶に憧れる男が自らも彫刻を試みるという話。
超時空世界の小咄。
踊る運慶。仁王。切り口が面白く音楽とフィットしている。
なんであんな夢を。石原良純。
ノリが良くて愉しめる。ショートショートとしてはベストの類。
『ユメ十夜』の中で「第六夜」がベストとの声もある。
漱石の原作では鎌倉時代の運慶が明治時代に甦った形になっているが、監督の松尾スズキは、運慶を現代風にアレンジし、踊りながら彫るという姿で登場させている。
セリフも漱石の原作を生かし切っている。
「痛っ!」「萌え!」などセリフの間とリズムが計算し尽くされており絶妙。
音楽も振付も絶品。
このシーンを固唾を呑んで見守る脇役の演技も完璧。
第七夜:
これだけが3D-CGアニメーションで、人間の孤独と寂寥感を幻想的に描く。
旅人(声:Sascha)が巨大な船に乗っているが、どこへ向かっているのかもわからない。
ひどい孤独感を感じ、いっそ死のうかと思っていると、甲板で少女(秀島史香)に出会う。
彼女も不安を抱えているようだった。
突然、少女の姿が消え、旅人が船の奥まで進んでいくと、賑やかなサロンで彼女はピアノを弾き、隣では男が歌を歌っていた。
違和感を感じた旅人は再び甲板に出て、大海に身を投じるのだった。
主人公の疎外感を表現しようと努力しているのはわかるが、自殺まで追い込まれる孤独地獄には程遠い。
アニメの緻密な描写は興味深いが、主人公の心の奥底と日本を模した船に乗船していることの違和感は絵柄の緻密な描写だけではなく、監督の工夫がより求められている。
第八夜:
子供たちが田んぼで遊んでいると、その中のひとり、ミツが、チューブ状の不思議な生物を捕まえる。
ミツは10メートル以上もあるその巨大な生物を家に持ち帰り、リキと名付ける。
一方、ミツの祖父・正造(藤岡弘)が部屋の奥に進んでいくと、幻影のようなものが現れては消える。
ようやく二段ベッドにたどり着き、横になる正造……。
原稿用紙を前に考え込む漱石(藤岡弘)の頭の中には、さまざまなイメージが浮かぶのだった。
ナンセンスなユーモアと奔放なイメージが横溢する脱力コメディ。
本作10話の中でも1番の支離滅裂な作品。
チクワ少年の田んぼでつかまえた奇妙な生物や藤岡弘演じる漱石が寝ながら一口肉まんを頬張る不可思議さ、挙句の果てに漱石のヒゲが鴎外のヒゲになる破天荒さ。
シュールなおかしさを笑えればいいけどそれほど面白くもないのは工夫が足りない。
第九夜:
幼い坊と母(緒川たまき)を残して、父(ピエール瀧)は出征していった。
夜、神社の境内に連れて行かれた坊は、母がお参りしている間、待っていなければならない。
母は何度も手を合わせ、お百度を踏んでいるようだ。
だが坊が拝殿の扉を開けて覗き込んでみると、そこには戦地の父の姿があった。
坊は母を呼ぼうと、鈴の紐をつかんでガラガラと振り、さらに紐によじ登って鈴を鳴らす。
しかし父は、本当に戦地で戦っているのだろうか。
すでに死んでいるのではないか。
どうやら母が何らかの理由で父を手にかけたらしいと、坊は察する。
出征した父を思う母と子の姿と、意外な真実を描く作品。
出征した夫をお百度参りする妻と神社の柱にくくりつけられ、拝殿の奥に父親の姿を見るというわかりやすい展開なのだが、戦場で羽目を外す夫の姿と出征する夫を止めようとする妻の争いがその後の不穏な未来を予感させる。
母を演じる緒川たまきのシリアスな演技と、父に扮するピエール瀧のとぼけたキャラのずれが面白い。
日本兵として出征する男、その妻はお百度参りをしている。この夫婦の息子は寺の扉の間から、戦場で戦う父親と目が合って微笑み合う。
西川美和監督の描く不思議な世界。
第十夜:
町一番の色男・庄太郎(松山ケンイチ)は、美女には目がないが、ブスは死んで当然と思っている非道な男。
そんな庄太郎が、瀕死の形相で帰ってくる。
庄太郎の話はこうだ。
数日前、目の覚めるような美女・よし乃(本上まなみ)について行くと、なぜか「豚丼」しかない食堂に案内された。
あまりの旨さに、豚丼を次々とたいらげる庄太郎だったが、その作り方は、世にもおぞましいものだった。
やがて、よし乃が本来の姿を現す。
彼女は実は、豚女だったのだ。
死闘の末によし乃を倒した庄太郎は、そのまま死ぬかと思われたが、復活して宇宙飛行士となった。
「第十夜」が良かったという評価も。
原作だとつまらなかったのだが、映画では全話のなかで一番パンチのある作品になっている。
マツケンの「~かいや~か」という台詞にもろ爆笑してしまい。
主演の松山ケンイチは美少年だと初めて知ったという人も。
この映画は、Amazon Primeで動画配信中: