渡瀬恒彦という往年の俳優がいます。
5年前に72歳で亡くなるまで、男らしい俳優として輝いていた異色の役者です。
一時は大原麗子の夫でもあった人でした。
渡瀬恒彦の出自と経歴をたどります。
代表映画:
『仁義なき戦い』
『鉄砲玉の美学』
『暴走パニック 大激突』
『狂った野獣』
『事件』
『神様のくれた赤ん坊』
『震える舌』
『セーラー服と機関銃 』
『皇帝のいない八月』
『南極物語』
『時代屋の女房』
『天城越え』
『敦煌』
『一杯のかけそば』
幼少期はガキ大将。
同じ小学校に通った同級生は「恒ちゃんは、ガキ大将で、けんかがものすごく強かった。友だちをいじめた相手に『何やってるんや』と向かっていき、兄貴肌で慕われていた」と懐かしんだ。
生誕した島根県から兵庫県津名郡淡路町(現・淡路市)に移り、三田学園中学校・高等学校卒業(6年間の寮生活)。
中学の入学試験で「あの野郎2番の成績で入って来た」と兄・渡哲也が回想していた。
中学三年で柔道黒帯。
高校時代は水泳部に所属。
当時から同世代の女子に人気があり、運動会には渡瀬目当ての女子学生が押しかけてきて大変だったという。
同級生の兵庫県議・野間洋志によると「常に夏目漱石などを読んでいた。難しい「乾坤一擲」などの言い回しや熟語を使い、国語の成績は270人中常に5番以内」。
また恩師によれば、当時から頭の回転が早くリーダーシップがあった。
また俳優かけだしの頃、三田学園の寮を何度か訪れ淡路の海を「昔はヤスで魚やサザエを取った」と懐かしんでいたという。
渡瀬曰く、高校在学中は新聞記者に憧れていた。
三田学園高等学校卒業後、中央大学・慶應義塾大学 法学部に現役合格するも早稲田大学は不合格だった。
兄・渡哲也からは「慶應に行け」と言われたが1浪を選択し尾崎士郎「人生劇場」にも影響された、早稲田大学の法学部に入学。
当時青山学院大学に通っていた兄・渡哲也との共同生活が始まる。
空手部に所属し、二段の腕前だった。
またボクシングもやっていた という説もある。
しかし、本人曰く「いい加減な学生」で、当時の大学は学生運動全盛期で講義もなければ卒論もない。
新聞記者になりたい夢はいつしか消え、作詞家になりたいと詩をたくさん書いていた時期もあったが、大学在学中はやりたいことも見つからないまま、仲間たちと「いつも何かねぇのかな」と語り合っていたという。
だからこそ実社会に出たらハードな職種で、なおかつ時代の先端を行く仕事に着きたいと考えた結果、卒業見込みで電通PRセンターに就職した。
兄・渡哲也の「堅い道を進め」というハッパもあって電通に就職したという。
しかし、研修期間1ヶ月で同社を辞め、先輩が作った青山の広告代理店「ジャパーク」に移る。
仕事は営業、渡瀬自身も会社員時代当時もよく働いていたと自負している。
ジャパークで働いていた時、兄・渡哲也の知り合いが不動産屋を始めて急成長。
宣伝スタッフがいないというので休日になると手伝いに行っていた。
そこでたまたま東映の社員が居合わせ、「俳優にならないか?」と声をかけられる。
最初は躊躇するものの、ジャパークの社長に相談すると、「絶対マイナスにならないから」と、当時東映の企画製作本部長だった岡田茂に会うことを薦められる。
ジャパークの給料もよく、仕事も面白くなって来たところで、映画にまるで興味もなく、兄から「芸能界は前近代的な職場だしラクじゃない。お前はふつうの堅い道を進んで欲しい」などと映画界入りに反対され、自身も兄を東映に引き抜くための手段に使われているんじゃないかと懸念し、100%断わるつもりで岡田に会いに行った。
すると、「とにかく俺にまかせろ」などと岡田に口説かれ、岡田の人柄にすっかり魅了され、「こういう人がいる世界なら一緒に仕事をしたい。30まで人生預けてみよう。一発ためしにやってみるか」と即決で俳優転向を決めた。
岡田から「男が顔になってくるのは35歳だぞ。それからだからな」と言われた。
渡が芸名で活動しているのに対し、本名で活動し始めたのは、高倉健を意識した東映に「大倉純」という芸名を付けられそうになったが気に入らず、それなら本名の方が良いと申し出たことに由来している。
1970年、石井輝男監督の映画『殺し屋人別帳』の主役としてデビューする事になった。
マスコミを集めてのデモンストレーションでは、大学時代の空手を見せて「兄貴には小さい頃から勉強でも喧嘩でも負けた事がない。今やっても負けませんよ。」と、既に日活のスターになっていた渡哲也へのライバル心を隠そうとはしなかった。
外部から迎えた若手タレントで東映で主役デビューは大川橋蔵以来といわれた。
岡田から「やれ」の一言で、演技の勉強もなく京都に来て監督の石井と同じ部屋に泊まり、毎朝監督と一緒に起きて撮影所に行き、出番の有無に関わらず終わりまで撮影に付き合う毎日だった。
しかし、デビュー作の演技を渡瀬曰く「そりゃそうだ、昨日までは素人だったんだから」と開き直っても、根がマイナス思考のため、凄まじいまでの酷さとひどく落ち込み、間違った世界に来たのかと思ったという。
だが、悩む暇がないほど次から次へと仕事が舞い込んでいった。
デビュー当時の渡瀬は、やんちゃでとにかく熱く突っ走っていたと大勢の映画関係者が証言している。
「現場では10代の新人でも70、80歳代のベテランでもみんな同じライバル」という渡瀬にとって、錚々たる俳優の中で唯一競争できる要素が「アクション」だった。
人並外れた身体能力の高さから、当初は東映のアクションスターのホープとして期待された。
そんなやんちゃで熱い渡瀬を東映京都撮影所でも次第に認められ、中島貞夫、工藤栄一、深作欣二、山下耕作といった監督を始め、あらゆる人から「恒さん」と呼ばれるようになった。東映京都撮影所では若い人を通常「○○ちゃん」、「○○ぽん」と呼ぶため渡瀬の「恒さん」は別格だった。
中島貞夫は渡瀬が演技に開眼したのは「現代やくざ 血桜三兄弟」(1971年)における荒木一郎との出会いと話している。
ある三兄弟の末弟を演じた渡瀬が、もぐらと仇名される気弱な男を演じる荒木一郎と不思議な友情で結ばれるあるシーン。
2人には長回しするからと事前に伝えてあったが、どちらが言い出したのか2人だけでリハーサルを行っていた。妙にウマも合ったのか、演技にはうるさい荒木の影響を受けて、それまでのただ生身をぶつけるような演技から変貌を遂げた。
また常に新しいことに挑戦しようとする気構えもあった。
中島貞夫が東映での監督生活が10年近くが過ぎ、一部の映画作家には「低予算ながら企業の制約なしに好きな作品が撮影できる」理由で人気があったATG作品として『鉄砲玉の美学』(1973年)に挑戦してみることにした。
それでも1000万という予算は苦しかった。
撮影の費用は工夫を重ねて切り詰めたが、キャスト費をどう捻出したらよいか。
そんな折だった。
何処で聞きつけたのか渡瀬が中島に付きまとい始める。
「ねぇ、何かやるんだって」、「俺やるよ」。
渡瀬は、撮影所のスタッフルームや中島の自宅に押しかけて出演を直談判した。
だが、中島は、義理と人情ばかりの従来の紋切り型ではない格好悪いヤクザを描こうとしていることや、まともにギャラが払えないことを言い訳にして渡瀬が作品への出演を断念するよう何度も説得した。
ところが、渡瀬は諦めることなく「ギャラなんかどうでもいいから俺にやらせて」と猛烈に売り込み、中島が「じゃあついでにあんたの車をロケ地に持ってきて劇用車に使わせてくれるか」と渡瀬に伝えると渡瀬は「いいよ」と答えた。
撮影地は宮崎県。
宿はタイアップした都城市の旅館の大部屋でスタッフ・キャストの区別なく大部屋でゴロ寝。
そこで10日あまり撮影で過ごし、中島はヤンチャで喧嘩早い渡瀬が細やかな気配りができるか目の当たりにした。
1976年の「狂った野獣」では中島が当初「まがりなりにもスターなんだから顔に怪我させられない」と横転するシーンのみスタントを使うことを主張するが、渡瀬は大型バス運転免許を運転教習所が驚くほどの早さで取得し、中島に「どうしても俺がやる、そのために免許を取ったんだ」と訴え、自らバスを運転し引っ繰り返す命がけの撮影に挑んだ。
中島は当時の渡瀬を「飛び立つヘリコプターにぶら下がったり、運動神経がとにかく抜群だった」と絶賛する。
だが、次第に中島は渡瀬が運転に関して自信過剰になっていると危惧するが、渡瀬のアクションはどんどん過激になっていく。
「暴走パニック大激突」(1976年)では200台もの車やバイクが衝突するクライマックスシーンの撮影時に出演者の中でたった1人ノースタントを志願。自らハンドルを握り、対向車に飛び込んだ。
しかし、1977年についに大事故を起こす。
「北陸代理戦争」の撮影中、渡瀬が運転ミスでオープンジープから投げ出されて、ジープに足を潰され、生死の淵をさまよう大怪我を負い降板したのだ。
監督・深作欣二と脚本家・高田宏治は責任を感じ、渡瀬の病室を見舞った。
麻酔が効いて眠り、目が覚めるとその度に枕元に深作がいた。
「こうなっちゃ仕方ないよ」と逆に深作と高田を慰めたという。
この時の大怪我をきっかけに、アクション俳優から性格俳優へと転向する。
渡瀬自身も後年「結果的には役の幅が広がった」と述懐している。
東映以外の映画会社(松竹)初出演作になった1978年『事件』で、ブルーリボン賞・日本アカデミー賞・キネマ旬報等助演男優賞を受賞した。
同年、松竹映画『皇帝のいない八月』でも、狂気を湛えた自衛隊元将校の反乱分子を演じた。
1979年には松竹映画『震える舌』、『神様のくれた赤ん坊』でキネマ旬報主演男優賞を受賞した。
NHKのテレビドラマ『おしん』では、並木浩太役として出演し、おしんの酒田時代の初恋の相手として存在感を示した。
大ヒット映画「セーラー服と機関銃」では、現場入り朝9時から撮影開始深夜0時まで薬師丸ひろ子へひたすら集中力を磨くために三國連太郎と共に繰り返し稽古をつけていた。
2015年8月末、体調不良を訴え受けた検査で胆嚢に癌が見つかった。
余命1年の告知を受け、都内の大学病院で5ヶ月間、手術ではなく抗癌剤の投与と放射線治療を受けた。
その後も入退院を繰り返しながら、少しずつ仕事をこなしてきた。
病魔が渡瀬の体を蝕み、2016年6月から8月に撮影された「おみやさんスペシャル2」では、6月親友の成瀬正孝が陣中見舞いに訪れても調子が悪いながら一緒に食事へ行くなどの気遣いを見せる余裕があったが、7月には隠し切れないほどの体調悪化で撮影が続行できるか一時検討された。
しかし撮影途中から妻が京都に駆けつけ献身的に支えたことで撮影を乗り切った。
松本基弘によれば『おみやさんスペシャル』の後に『タクシードライバーの推理日誌』新作撮影予定だったが、体調を崩したことを考慮し延期して静養に努めた。
遺作となったテレビ朝日系列のスペシャルドラマ『そして誰もいなくなった』(2017年3月25日・26日放送)への出演を藤本一彦プロデューサーが渡瀬にオファーしたのは11月。
藤本によれば、最初は別の役を依頼するつもりだったが、準備稿を読んだ渡瀬が犯人の磐村兵庫役をやりたいと話した という。
『そして誰もいなくなった』の撮影は、2016年12月24日から2017年2月12日まで続いた。
クランクインで渡瀬は「皆さんご存知だと思いますが、私は癌です。それでもこの役を全うしたい」と挨拶したという。
移動は車椅子、撮影の合間には酸素吸入器の管を鼻から挿入して、命を削って容態が急変する前まで撮影を終わらせた。
2月中旬に左肺の気胸を発症し入院治療を行うも、3月に入って敗血症を発症。
しかし現場に戻る執念は衰えず、一般病棟にいる時から『警視庁捜査一課9係 season12』の台本を持ち込んで台詞を全て覚えていた。
死去の前日にはマネージャーと『警視庁捜査一課9係 season12』の打ち合わせをこなし、「今月から撮影だ頑張ろう」と自らを鼓舞していたという。
しかし、2017年3月14日、細菌が血液を通じて全身を巡り容態が急変。
病院に駆け付けた妻と長男と長女の家族3人に看取られ、同日23時18分、胆嚢癌による多臓器不全のために東京都内の病院で永眠。
72歳だった。
私生活では、三本目の映画『三匹の牝蜂』で共演した大原麗子と1973年結婚したが、1978年離婚している。
2度目は結婚当時元OLの一般人女性と結婚し、死ぬまで添い遂げた(1979年〜2017年)。
渡瀬が公に語ることは少なかったが、渡瀬逝去後2017年6月7日『徹子の部屋』に出演した井ノ原快彦によれば子供2人が独立して巣立った後、妻と2人きりになり「二度目の恋だな」と井ノ原に妻への愛情の一端を語っていたことを紹介していた。
1994年脳梗塞を煩ったことをきっかけに健康維持のため始めた散歩に付き添っていたことなど生前渡瀬が明かしている。
特に晩年がんになってからは治療法について周囲と相談したり、がんで体力が落ちる渡瀬を気遣い、食欲が減退する渡瀬のために食べやすく栄養が取れる食事を作るなどして、渡瀬を支え続けた。
そんな献身ぶりに渡瀬は「なぜコイツと一緒になったか、わかった」と愛情と感謝を口にしていたとされる。
これから、渡瀬恒彦の主な出演映画をひとつずつレビューして行きます。
お楽しみに。