グレゴリー・ペックの映画 「日曜日には鼠を殺せ」 | 人生・嵐も晴れもあり!

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「日曜日には鼠を殺せ」

(原題:Behold a Pale Horse

 

 

「日曜日には鼠を殺せ」 予告編

 

1964年11月20日日本公開。

スペイン内乱後のゲリラのリーダーの逸話を映画化。

 

原作:エメリック・プレスバーガー『Killing A Mouse On Sunday』

脚本:J・P・ミラー

監督:フレッド・ジンネマン

出演者:

グレゴリー・ペック 、 アンソニー・クイン 、 オマー・シャリフ 、 パオロ・ストッパ 、 レイモン・ベルグラン 、 ミルドレッド・ダンノック 、 ペレット・プラディエ 、 クリスチャン・マルカン 、 ミシェル・ロンズデール 、 ダニエラ・ロッカ

 

あらすじ:

1939年スペインの内乱はフランコ軍の勝利に終わった。

ゲリラのリーダーだったマヌエル(グレゴリー・ペック)は国境を越えフランスに亡命、20年の歳月が流れた。

かつての英雄も年老いて今は知る人もない。

ある日パコという少年が訪ねてきて、かつての彼の友であったという少年の父を殺した警察署長ヴィニョラス(アンソニー・クイン)を殺してくれとたのまれたが断った。

その警察署長はこの20年マヌエルを捕まえることだけに生きてきた。

だが、国外に住む彼に手出しはできない。そんなときマヌエルの母が重体というニュースが入った。

知らせれば彼は来るにちがいない。

密輸商人カルロスを使者にたてた。

だが母は息子が罠にかかるのを感じ、フランスに旅立つフランシスコ神父(オマー・シャリフ)に、息子を来させるなと託し息をひきとった。

一方カルロスはパコ少年に素性を見破られ、マヌエルを撲り倒して逃げた。

神父と一夜語り明かしたマヌエルは、自分を助けようとする神父の心の温かさに触れて感動した。

そしてもうどうなってもいいような気になった。

体力も、気力さえ衰えた自分だ。

罠を承知で1人雪のピレネーを越え、祖国の土を踏んだ。厳重な警戒線の中でついに撃ち合いが始まった。

カルロスを倒したが、自らも銃弾を浴び、死んでいった。

軽い怪我をしただけの警察署長を新聞記者が取り巻き、永年の宿敵を倒した感想を求めた。

「マヌエルは母親の死んだことを知っていた。俺たちの罠のことも知ってたはずだ。それを承知でどうして乗り込んで来たのか?」と自問した。

そして長い年月の空費に、何ともいえない苦さを味わった。

マヌエルの死体が運び出された時、フランシスコが目に涙を浮かべて見送っていた。

 

 

コメント:

 

スペイン内戦がフランコ軍の勝利に終わってから20年後の1959年、フランスに亡命していたかつて反政府ゲリラのリーダー・マヌエル(グレゴリー・ペック)のもとにある日、パコという少年が訪ねて来る。かつて彼の友であった少年の父親を殺した警察署長ヴィニョラスの暗殺を依頼しに来たのだが、マヌエルはこれを断る。

だが数日後、スペインに住むマヌエルの母親が危篤という知らせが彼のもとに届く。マヌエルの母親は息子が罠にかかるのを感じ、ルルドに旅立つフランシスコ神父に息子を来させないようにと託し、息をひきとる。

神父と語り明かしたマヌエルは、自分を助けようとする神父の心の温かさに触れて感動し、一方で体力も気力も衰えた今の自分に限界を感じ始める。そして、罠を承知で国境を越え、祖国の土を踏む。

 

タイトルが、日本語と原題で全く異なっている。

原題の「Behold a Pale Horse」とは、何のことか。

これについては、本ブログの最期に注釈を掲載している。

 

スペイン内乱の後日譚を、フレッド・ジンネマン監督が、人間同士の想い・ふれあいなどを描いたドラマ。
『ジャッカルの日』のようにハラハラするサスペンス映画ではないが、スペイン内乱のヒーロー(グレゴリー・ペック)、彼を狙い続けるスペイン側警察署長(アンソニー・クイン)、鍵を握る神父(オマー・シャリフ)という豪華メンバーによって、「誰がウソを言っているか?」、「警察署長が罠をかけるが、元ヒーローはどうするか?」など…観ていて次の展開がドンドン知りたくなる展開になっている。
モーリス・ジャールの音楽も、このドラマを盛り上げる。



スペイン内乱時にゲリラのリーダーだったマヌエル(グレゴリー・ペック)は、内乱後に国境を越えてフランスに亡命し、それから20年の月日が経った。
スペイン政府側の警察署長ヴィニョラス(アンソニー・クイン)は、内乱から20年経っても、マヌエルを捕まえることだけを生きがいにしているが、スペイン国外にいるマヌエルに手出しができない。
そこで、警察署長は、スペインに残っているマヌエルの母親が重体となっていることに眼をつけて、「マヌエルが母の重体を知れば、スペインにやってくるだろう」と罠をかける。
しかし、母親は息子が罠にかかることを心配して、フランスに旅立つ神父(オマー・シャリフ)に「息子を来させるな」と託して息を引き取るのだが……。

 

意味不明のタイトルのように感じても、内容はさほど哲学的でもなく、普通に理解できる物語だ。
警察署長の罠と知っていながら、母の元へ帰るヒーローが射殺されて、母親と並べられるシーンは名場面。

いよいよ大詰めという場面、今はすっかりやさぐれた元スペイン人民戦線闘士、マヌエルことグレゴリー・ペックは、純真なパコ少年に買ってやった真っ白なサッカーボールを部屋の片隅から拾い上げ、わずかに表情をゆがめつつポイと窓から放り投げる。

ボールは大きく弾んで無人の坂道を転がり落ちていく。

白いボールがはねつつ消えていくどこか幻想的な大俯瞰映像。


物語の面白さは抜群。

スペイン内戦の歴史知識にとくに詳しくなくても楽しめる。

負けて落ちぶれた男が最後の意地を貫く物語としても、高倉健が池部良の助けなしにたった一人、絶対多勢の敵に死を覚悟の殴り込みをかけるが如きのアクション映画としても楽しめる。

 

酒場の娘の太ももに目をやるのは、合戦の前のはやる心と不安を女の体で鎮めようとする、古来より続く戦士のならいに従ったのだろう。

紳士のグレゴリー・ペックは見る以上のことはしないが。
もちろん「どちらの法に従うのか?神の法?署長の法?」なんていう台詞があるから、人間の良心のあり方を問うきまじめヒューマンドラマとしても堪能できる。

人民戦線側が敗北してフランコ将軍の天下になってからは、マヌエルたちはレジスタンスになるわけだが、こういう左翼少数派は敵の大将を討ち取ることより、仲間うちの裏切り者を処刑することに情熱を燃やすのはどこも同じらしい。

「影の軍隊」も「連合赤軍への道程」も。

せっかく署長ヴィニョラス(アンソニー・クイン)に合わせた照準をすっとカルロスに移動させた時は、心底がっかり。

パコ少年の願いを叶えてやれたばかりではなく、独裁政権に少なからぬ打撃を与えることができたろうに。



いかにも良識派のジンネマン監督は、フラシスコ神父(オマー・シャリフ)を配して、フランコ側にも人民戦線側にもひとの命を奪う権利はないと言わせ、マヌエルに「暴力的な半生を悔いていますか」と諭している。

結局物別れにはなるのだが。スペインカトリック教会がフランコを支持したのは知っていたが、人民戦線の闘士たちがあれほど激しく教会や神父を批判し無神論者であることには少々驚く。

グレゴリー・ペックのやさぐれぶりは最高。ピレネー山中や古風な田舎の街や村の素晴らしく美しいロングショットと登場人物の心理を微細にあぶり出す表情のアップ、その絶妙なリズム感、緊張と弛緩の巧みな配分。絶命する寸前のマヌエルの脳裏にあの白いサッカーボールを再び登場させる周到さ。これぞ映画!

 

Killing A Mouse On Sunday: Emeric Pressburger, Papas: Amazon.com: Books


本作の原作小説の原題は「Killing a Mouse on Sunday」(日曜日には鼠を殺せ)。

映画はこれを採用せず「Behold a Pale Horse」(蒼ざめた馬を視よ)とタイトルとした。

Beholdは「見る」。Paleは「蒼い」。

映画邦題はなぜか原作の方を採用し「日曜日には鼠を殺せ」とした。

 

冒頭にこの映画の内容を暗示するような言葉が出てくる。

「見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は“死”といい、これに陰府(よみ)が従っていた。」

(黙示録第6章、第8節。)

 

この蒼い馬は、ヨハネ黙示録第6章第8節に出てくる、死を象徴する馬のことだ。

「蒼ざめた馬を視よ、その背に跨るは死、黄泉がこれに従った」。

これはイーストウッドの「ペイル・ライダー」にも出てくるし、むしろその映画のテーマだ。

 

普通の日本人には聖書の知識が乏しいので、すぐには理解できない。

だが、こういったところを理解して行く過程にも、映画を観る喜びの一端があるかもしれない。

 

小説の原題は、映画の英語タイトル(原題)とは異なるのだ。

「Killing a Mouse on Sunday」である。

実は、これを日本語の映画タイトルにしている。

「日曜日には鼠を殺せ」。

これもまた、興味深いもので、「日曜日(安息日)に鼠を殺した猫が、月曜日にそのことを理由にし、清教徒に殺される」というものだ。

「Where I saw a Puritane-one. Hanging of his cat on Monday For killing of a mouse on Sunday.」だから、命令形(殺せ)ではないように思うが。

猫は鼠を殺すもの。

映画における鼠とはだれか、猫とはだれか、清教徒とはだれか。

ペックかクインかシャリフか。

猫はマニュエルと考えていいと思うが、これもなんとも断言できない(そこがいいのだけれど)。

この点を考えても、本作の神父(ピューリタンでなくカソリックだけど)シャリフの重要性もうかがえる。

スペイン市民戦争の知見が少しあればより深く感じるところがあるだろうけれど、知らなくてもエモーションは届く。

 

このあたりを含めてじっくりと観ていると、さらにこの映画の奥深さがじわりと分かったような気がしてくるのだ。
つまり、この映画は、日本語タイトルと英語の原題の二つを別々に味わえるようにしているといえるかも知れない。

映画の原題は『BEHOLD A PALE HORSE』であり、これは冒頭に出てくるテロップの「青ざめた馬を見よ。これに乗るものの名は死。黄泉がこれに従う……ヨハネの黙示録」という表記がそれを示している。

新約聖書の中にある「ヨハネの黙示録」にある四人の騎士のことを見て行くとだんだん何を言いたいのか分かってくる。

 

「青ざめた馬」とは、

「ヨハネ黙示録第6章第8節にあらわれる、死を象徴する馬。ヨハネの黙示録の四騎士の一」(日本語版ウィキペディアから)

実際の黙示録にある記述は以下の通り:
「そこで見ていると、見よ、青白い馬が出てきた。そして、それに乗っている者の名は「死」と言い、それに黄泉(よみ)が従っていた。彼らには、地の四分の一を支配する権威、および、つるぎと、ききんと、死と、地の獣らとによって人を殺す権威とが、与えられた」

 

ヨハネの黙示録 | 第一から第六の封印が解かれる時〜黙示録の四騎士

 


ヨハネの黙示録の四騎士(ヨハネのもくしろくのよんきし)とは、『ヨハネの黙示録』に記される四人の騎士。

小羊(キリスト)が解く七つの封印の内、始めの四つの封印が解かれた時に現れるという。

四騎士はそれぞれが、地上の四分の一の支配、そして剣と飢饉と病・獣により、地上の人間を殺す権威を与えられているとされる。

 

第一の騎士

『ヨハネの黙示録』第6章第2節に記される、第一の封印が解かれた時に現れる騎士。

白い馬に乗っており、手には弓を、また頭に冠を被っている。

勝利の上の勝利(支配)を得る役目を担っているとされる。

第二の騎士

『ヨハネの黙示録』第6章第4節に記される、第二の封印が解かれた時に現れる騎士。

赤い馬に乗っており、手に大きな剣を握っている。

地上の人間に戦争を起こさせる役目を担っているとされる。

第三の騎士

『ヨハネの黙示録』第6章第6節に記される、第三の封印が解かれた時に現れる騎士。

黒い馬に乗っており、手には食料を制限するための天秤を持っている。

地上に飢饉をもたらす役目を担っているとされる。

第四の騎士

『ヨハネの黙示録』第6章第8節に記される、第四の封印が解かれた時に現れる騎士。

青白い馬(蒼ざめた馬)に乗った「死」で、側に黄泉(ハデス)を連れている。

疫病や野獣をもちいて、地上の人間を死に至らしめる役目を担っているとされる。

ギリシャ語のchloros(クロロス、緑)がpale(ペール、青白い)と訳されたもので、翻訳者によっては、病的な緑、または、白よりもむしろ灰色とされた。

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