日本を代表する昭和の女優、それは、佐久間良子です。
東映トップの美人女優であり、演技力でも定評のある役者です。
彼女は、「五番町夕霧楼」などの水上勉の文芸作品の多くに出演して日本人女性の美しさと哀しみを演じています。
鶴田浩二の相手役としても多くの作品に姿を見せています。
ほかにも数多くの記念すべき作品に出演し、日本映画の歴史に大きな貢献をしてきました。
佐久間良子の経歴と主な出演映画をレビューします。
佐久間良子
本名 | 佐久間 良子 |
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生年月日 | 1939年2月24日(82歳) |
出生地 | 日本・東京府東京市板橋区(現・東京都練馬区) |
国籍 | 日本 |
血液型 | O型 |
職業 | 女優 |
ジャンル | 映画・テレビドラマ・舞台 |
東京市板橋区中新井町(現・東京都練馬区豊玉)の生まれ。
川村高校在学中の1956年秋、高校の先輩である東映の女優・小宮光江に連れられ東映東京撮影所に行った時、宣伝部員から映画界入りを勧誘される。
両親の反対にあうが、親族会議の結果、認められて、1957年の卒業とともに形式的に4期ニューフェイス試験を受ける。
その際に水着審査を拒否したものの、結局、水着審査は受けずに済ませ、補欠で合格。
同期に山城新伍、水木襄、室田日出男、山口洋子、花園ひろみがいた。
俳優座養成所に半年間通うが、その間、東映動画の第1作「白蛇伝」のために、白蛇の精・白娘の参考モデルとなっている。
1958年、佐伯清監督の「悶える青春」の端役で映画デビュー。
2作目の小石栄一監督「台風息子修学旅行の巻」で、江原真二郎の相手役に抜擢される。
同期の山城、室田がまったくの端役だったことからも、早くから佐久間が東京撮影所のホープとして期待されていたことがわかる。
当時、東映京都撮影所には丘さとみ、大川恵子、桜町弘子らが台頭していたのに対し、東京側には若いスター女優が乏しかったという事情もあって彼女が多用されることになる。
以後、「三代目魚河岸の石松」「おけさ姉妹」「空中サーカス・嵐呼ぶ猛獣」などデビュー年に14本もの作品に、ほとんどが準主演級で出演した。
翌1959年には、初の時代劇「旗本退屈男・謎の南蛮太鼓」をはじめ、「旋風家族」「無法街の野郎ども」「黒い指の男」「警視庁物語・顔のない女」と5本をかけもち出演するなど、スターへの足がかりをつかむ。
しかし、いくらヒロインといえども男性スターに彩りを添える程度でしかなかったが、山村聰監督「母子草」では精神的に不安定な少女役を、感傷を排した初々しい演技で披露、好評を得た。
次いで「白い通り魔」、「ふたりの休日」で中村賀津雄(現・嘉葎雄)と共演。
1960年にも多数の作品に出まくったが、今井正監督「白い崖」では野心に燃える青年(木村功)に利用される社長令嬢を未熟な部分を残しながらも精いっぱい演じ、家城巳代治監督の「秘密」では青年(江原真二郎)とふたりだけの秘密を持つ保母に扮し、生真面目さと清潔感を出して好演した。
また終戦近い満州を舞台にした「砂漠を渡る太陽」では、東映入社第1回の鶴田浩二の相手役。
関川秀雄監督の「大いなる驀進」では中村賀津雄、瀬川昌治監督の「ぽんこつ」では江原真二郎の恋人役を演じる。
1961年には「次郎長社長と石松社員」シリーズ5作で中村賀津雄の恋人を演じ、「地獄に真紅な花が咲く」「黄色い風土」「湖畔の人」では連続して鶴田浩二の相手役をつとめる。
さらに鶴田とは「ギャング対Gメン」(1962年)などのあと、沢島忠監督の「人生劇場・飛車角」(1963年)で鶴田の代貸・飛車角の情婦・おとよに扮して共演。
それまでの清純さを突き破った初の汚れ役だったが、陰影のある女を情感たっぷりに巧演して賞賛され、代表作のひとつとなった。
この頃、鶴田との関係を噂され、芸能マスコミに追いかけられる。
1963年に、水上勉原作、田坂具隆監督の「五番町夕霧楼」に主演。
貧しさゆえに京都の遊郭・夕霧楼に売られた片桐夕子に扮し、薄倖の女性を体当たりで演じ、この作品が佐久間良子の代表作となった。
翌1964年には、再び水上原作、今井正監督の「越後つついし親不知(おやしらず)」に出演。
夫(小沢昭一)が出稼ぎに出た留守中に夫の仲間(三國連太郎)に犯されて妊娠、真相を知った夫に殺害される悲劇の妻を演じ、ここでも再び賞賛され、押しも押されもせぬ日本映画界を代表するスター女優となった。
村山新治監督の「肉体の盛装」(1964年)では、打算で働く芸者に扮し、それまでの運命に流される女性から一歩踏み出して自立を目指す女性を演じ、「孤独の賭け」(1965年)では金銭のために体を武器にしてのしあがっていくヒロイン像を見事に形成した。
同年2月には、水上原作のフジテレビ『北野踊り』に芸者の役でテレビ初出演。
その後、山本薩夫監督の「にっぽん泥棒物語」(1965)、家城巳代治監督の「逃亡」(1965年)に出演。
1966年には、佐藤純彌監督の「愛欲」で、当時ライバル視されていた三田佳子と、初めて本格的に四つに組んで共演して話題を集めた。
そして1966年には、「五番町夕霧楼」の制作スタッフである水上勉原作、鈴木尚之脚本、田坂具隆監督による「湖(うみ)の琴」に主演する。
若狭の貧農の娘(佐久間)が糸とり工場の若い衆(中村賀津雄)と愛し合うが、長唄の師匠(中村鴈治郎)に見込まれて弟子入りしたものの、師匠の独占欲から肉体を奪われ自殺するという忍従の女を演じ、NHK映画賞の女優賞を獲得する。
一方、1967年にはNET(現・テレビ朝日)のドラマ『徳川の夫人たち』にお万の方で出演。
お茶の間でも人気を集めるようになる。
以後は「喜劇・急行列車」「あゝ同期の桜」「旅路」など男優の添え物の出演が続き、東映の企画に強い不満を抱くようになる。
逆にテレビでは女性路線が優遇され、NETの『皇女和の宮』で悲劇のヒロイン・和の宮に扮する。
翌1968年、成沢昌茂監督の「雪夫人繪圖」で純粋な愛と官能の誘惑に悩むヒロインを演ずるが、やくざ映画全盛の東映ではお蔵入りとなり、1975年に日活系で公開されるまで待たなくてはならなかった。
この1968年には松竹に借り出され、中村登監督の「わが闘争」に主演。
みじめな境遇に育ち、何度となく自棄的になりながらもたくましく生きていくヒロインを熱演し、芸域を広げることに成功する。
1969年には三船プロの「風林火山」で由布姫に扮し、三船敏郎、中村錦之助(のち萬屋錦之介)と共演。
この頃から活動の中心を徐々にテレビに移し、有吉佐和子原作のNHK『一の糸』で好きな男にすべてを捧げるヒロインを演じ、また芸術座の三島由紀夫原作『春の雪』で主人公の伯爵令嬢・聡子に扮して初舞台を踏んだ。
この舞台は好評のため4カ月のロングランとなり、舞台女優としても脚光を浴びるようになり、以降は映画出演が極端に減少していく。
1970年に東宝の「商魂一代・天下の暴れん坊」、71年には日活の「戦争と人間/第二部・愛と悲しみの山河」で数奇な運命にもて遊ばれるヒロインを演じる。
その後しばらく映画出演は途絶えたが、1979年、市川崑監督の“金田一耕助”シリーズ「病院坂の首縊りの家」で、呪われた殺人事件の謎を握る旧家の当主役を貫禄充分に主演する。
1983年には3度目の映画化となる同じ市川監督の「細雪」で、大阪・船場育ちの旧家の四姉妹の次女を演じ、岸惠子、吉永小百合、古手川祐子らと華麗なる共演を果たした。
1990年には降旗康男監督の「遺産相続」に主演。
急死した夫の遺産50億円をめぐり、愛人役の小川真由美と火花散る競演を見せる。
そして1993年の朝間義隆監督「スペインからの手紙」では、主人公の少年を助ける原田知世の母親役で助演した。
テレビドラマでは、『華々しき一族』、『雪舞い』、『心の旅路』、『北条政子』、『出雲の阿国』、TBS『舞いの家』、『女たちの忠臣蔵』、『未亡人』、『女のときめき』など多数の作品に出演した。
そしてNHK大河ドラマでも、『新・平家物語』で建礼院徳子、『おんな太閤記』では秀吉の妻・ねねを演じたほか、『春日局』、『功名が辻』にも出演している。
一方、舞台では、日生劇場『春の雪』(1973年)、『シラノ・ド・ベルジュラック』(1974年)ではシラノ(平幹二朗)の相手役ロクサーヌ、東京宝塚劇場『真砂屋お峰』(1975年)ではお峰に扮し、豪華な衣装をまとって話題となった。
その後も舞台での活躍が続き、1983年に菊田一夫演劇賞、94年には『唐人お吉』の演技が評価され芸術祭賞を受賞している。
また得意の書道では77年に日展に入選し、2008年にはニューヨーク日本人会館にて荒了寛との『二人展』を開き、同年、名古屋で個展を開くなどの実力を披露している。
1970年4月16日、平幹二朗と結婚。
一男一女(二卵性双生児)をもうけたが、1984年に離婚している。
また2004年には舞台『鹿鳴館』で、俳優となった息子の平岳大と共演して話題となった。
現在82歳だが、現役の女優として舞台の仕事を中心に活動している。
では、これから佐久間良子の出演映画をひとつずつレビューしてゆきます。
お楽しみに!