「暁に祈る」 「硫黄島からの手紙」の主人公・栗林忠道が映画化! 全編視聴可能! | 人生・嵐も晴れもあり!

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「暁に祈る」

 

 

「暁に祈る」 全編

 

「暁に祈る」 by 伊藤久男

 

1940年4月17日公開。

戦時中の戦争高揚のための「軍馬PR映画」。

「硫黄島からの手紙」の主人公・栗林忠道が馬政課長当時に映画化を推進した作品。

主題歌が大ヒット。

 

脚本: 斎藤良輔、八木沢武孝

監督: 佐々木康

主題歌:「暁に祈る」(伊藤久男)

 

キャスト:

  • 石川真吉: 徳大寺伸
  • 真吉の妻・千代: 田中絹代
  • 真吉の父・謙作: 河村黎吉
  • 冬木清一: 夏川大二郎
  • 松田部隊長: 佐分利信
  • 唄う兵隊: 伊藤久男
  • 千代の母・坂田しげ: 葛城文子
  • しげの娘・志津: 汀陽子
  • 文三:坂本武
  • 文三の妻・お時:飯田蝶子
  • 孫作次:横山準
  • 原口上等兵: 笠智衆

 

 

あらすじ:

千代(田中絹代)は牧場の跡取り娘で、母親のしげ(葛城文子)から牧童頭の冬木(夏川大二郎)との結婚を勧められていたが、となり村の真吉(徳大寺伸)と恋仲になり真吉に嫁いでしまう。

そのためしげは千代と親子の縁を切っていた。

ある日真吉が出征することになり、真吉の親友でもある冬木は千代を許すようしげを説得するが、しげは首を縦に振らない。

やがて真吉と千代が育てていた馬・太郎が軍に徴発されることになるが、時を同じくして冬木にも召集令状が来る。

騎兵軍曹である冬木は隊長に掛け合って太郎を自分の馬にしてもらい、大陸に出陣する。

太郎のおかげで手柄を立てた冬木は真吉の部隊が近くにいることを知り、会いに行くが、真吉は前日の戦闘で戦死したところだった。

真吉の戦死の報は内地にも届き、しげは娘を連れ戻しに嫁ぎ先に行くが、千代は一生真吉の妻であり続けると母に告げる。

しげはやっと娘の真心を知り、縁切りを解き、娘に謝罪する。

大陸では真吉の遺骨を抱いた冬木が、太郎の背にまたがり堂々の入城行進を行う。

 

 

コメント:

 

太平洋戦争盛んなりしこの頃、映画会社各社が制作した戦時高揚映画のひとつ。

軍馬をPRする趣旨で製作された作品。

映画『硫黄島からの手紙』で脚光を浴びた硫黄島戦の総責任者だった栗林忠道が、日本で馬政課長当時に映画化した作品。

 

戦死した真吉の部隊長に佐分利信が扮していて、立派なひげを生やしている。

この頃、軍人のお偉いさんは、皆ひげを生やしていたようだ。
戦闘シーンも迫力あり、軍の力の入れようが分かる。

描き方も丁寧なので、かえって当時の軍の雰囲気や、人と馬の関係、市井の人々の生活などをを知ることができる。

 

 

この映画『暁に祈る』の主題歌は、大ヒットし、戦後も多くの歌手に歌い継がれている名曲。

作曲は、NHK朝ドラ「エール」の主役モデルである古関裕而である。

最初にこの曲を歌った伊藤久男は映画にも「唄う兵隊」の役で出演している。

「愛馬花嫁」とのカップリングで1940年に発表され、大ヒットした。

 

詩と曲には、望郷の念にかられる兵士達の思いが見事に描かれており、それが大衆に受け、当初の目的である「軍馬PR映画」の枠を超えてレコードは大ヒットを記録した。

この曲や、同じく古関裕而作曲である「露営の歌」などの歌詞やメロディを紐解くと、実は「反戦の歌」であることがわかる。本心では家族と別れ戦争に行きたくはなかった兵士達に共感を得て愛唱された結果、ヒットした。現在でも戦中派に愛唱されている。

 

陸軍省馬政課の肝煎りの映画であったため、主題歌についても馬政課員の軍人達がたいへん張り切り、作詞を担当した野村俊夫は7回も書き直しを命じられた。

その時野村が思わず漏らした「あ~あ」というため息から、この歌の印象的な歌い出しが生まれたという。

 

このときの馬政課長が、2006年公開の映画『硫黄島からの手紙』で脚光を浴びた栗林忠道であった。

栗林はこのほかに「愛馬進軍歌」の選定(1938年)にも関わっている。

栗林忠道の経歴は以下の通り:

 

栗林忠道は、1891年〈明治24年〉7月7日に長野県長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)の旧松代藩郷士の家に生まれた。

1914年(大正3年)5月28日、陸士卒業、騎兵第15連隊附となり、同年12月25日に陸軍騎兵少尉任官。

1917年(大正6年)10月から1918年(大正7年)7月まで陸軍騎兵学校乙種学生となり、馬術を専修。

1918年(大正7年)7月に陸軍騎兵中尉。

1920年(大正9年)12月7日、陸軍大学校へ入校。

1923年(大正12年)8月、陸軍騎兵大尉。

同年11月29日に陸大を卒業(第35期)、成績優等(次席)により恩賜の軍刀を拝受。

同年12月、栗林義井(よしゐ)と結婚。

 

太郎・洋子・たか子の一男二女を儲ける。1927年(昭和2年)、アメリカに駐在武官(在米大使館附)として駐在。

帰国後の1930年(昭和5年)3月に陸軍騎兵少佐に進級、4月には陸軍省軍務局課員。1931年(昭和6年)8月、再度北米のカナダに駐在武官として駐在。

フランス・ドイツ志向の多い当時の陸軍内では少数派であった「知米派」であり、国際事情にも明るくのちの対米開戦にも批判的であった。

1933年(昭和8年)8月、陸軍騎兵中佐、同年12月30日に陸軍省軍務局馬政課高級課員となりさらに1936年(昭和11年)8月1日には騎兵第7連隊長に就任する。

1937年(昭和12年)8月2日、陸軍騎兵大佐に進級し陸軍省兵務局馬政課長となる。

「暁に祈る」の映画化を推進。

 

1944年(昭和19年)5月27日、小笠原方面の防衛のために新たに編成された第109師団長に親補された。

6月8日、硫黄島に着任し、以後、1945年(昭和20年)3月に戦死するまで硫黄島から一度も出なかった。

同年7月1日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任、海軍部隊も指揮下におき「小笠原方面陸海軍最高指揮官」となる。

 

翌1945年(昭和20年)2月16日、アメリカ軍艦艇・航空機は硫黄島に対し猛烈な上陸準備砲爆撃を行い、同月19日9時、海兵隊第1波が上陸を開始。

十分にアメリカ軍上陸部隊を内陸部に引き込んだ日本軍守備隊は、10時過ぎに一斉攻撃を開始する。

米軍の上陸部隊指揮官・ホーランド・スミス海兵隊中将は、その夜、前線部隊からの報告によって硫黄島守備隊が無謀な突撃をまったく行なわないことを知って驚き、取材の記者たちに「誰かは知らんがこの戦いを指揮している日本の将軍は頭の切れるやつ(one smart bastard)だ」と語ったという。

 

その後も圧倒的な劣勢の中、アメリカ軍の予想を遥かに上回り粘り強く戦闘を続け多大な損害をアメリカに与えたものの、3月7日、栗林は最後の戦訓電報となる「膽参電第三五一号」を大本営陸軍部、および栗林の陸大在校時の兵学教官であり、騎兵科の先輩でもある侍従武官長の蓮沼蕃大将に打電。さらに組織的戦闘の最末期となった16日16時には、玉砕を意味する訣別電報を大本営に対し打電。

翌17日付で戦死と認定され[、特旨により陸軍大将に親任された。

 

死後、日米の戦史研究者などからは高い評価を得ていたが、硫黄島の戦いを除くと軍参謀長や騎兵旅団長など軍人としては目立ったエピソードも少なく、局地戦で戦死した指揮官ということもあり、日本でも一般的な知名度は高くなかった。

だが、2006年(平成18年)に公開されたハリウッド映画『硫黄島からの手紙』により、一躍その名が知られるようになった。

 

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