「栄光への5000キロ」
1969年7月15日公開。
東アフリカ・サファリ・ラリーを描く石原プロ作品。
配給収入:6億5000万円。
脚本:山田信夫
監督:蔵原惟繕
出演者:
石原裕次郎、浅丘ルリ子、ジャン=クロード・ドルオー、エマニュエル・リヴァ、ロバート・A・キナラ、三船敏郎 、仲代達矢 、伊丹十三
あらすじ:
人間とメカニズムが大自然と極限状況で接する苛酷なレース。
世界三大ラリーの一つモンテカルロ・ラリーに参加した五代(石原裕次郎)は、視界ゼロの濃霧の中で岩石に激突。
昏睡状態から覚めた五代の目に像を結んだのは必死の看護を続ける恋人優子(浅丘ルリ子)の姿だった。
その時、メカニックを担当したケニアの青年マウラ(ロバート・A・キナラ)は、事故の責任を感じ姿を消していた。
やがて春。
五代の傷は癒えたが、落ち着いた生活を夢見ていた優子の期待は見事に裏切られた。
五代にとって、自動車レースこそが最大の生甲斐だった。
富士スピードウェイの日本グランプリ・レースで、五代は親友ピエール(ジャン=クロード・ドルオー)の巧妙なレース妨害で優勝を逸した。
五代が、日産の常務・高瀬(三船敏郎)から、大任を依頼されたのはそんな折だった。
アフリカのサファリ・ラリー出場がそれだった。
五代は早速コースにもっとも精通したメカニック担当者マウラを探し出すことから始めた。
折も折、優子がデザインの勉強のためパリに飛び立った。
だが、五代は彼女を追う訳にはゆかなかった。
それから数日後、ナイロビ空港に降り立った五代をマウラが待受けていた。
このレースには、日本グランプリで苦渋を味合わせたピエールも出場。
4月3日、熱気によどんだナイロビシティホール前、大統領夫人のかざすスタート・フラッグがうち下され、カーナンバー1のプジョーが、スタートした。
やがてカーナンバー90の五代チームも夜のとばりをついて多難なレースにスタートしていった。
レースは苛酷そのもの、前半を完走したのは98台中わずか16台だった。
そして後半の北廻りコースを征服した五代チームのブルーバードが、大観衆の見守る中で優勝の栄光に輝いた。
群衆の中には優子の姿もあった。
コメント:
原作は、1966年の東アフリカ・サファリ・ラリーにおいて日産チーム監督としてチーム優勝を経験した笠原剛三が記した「栄光への5000キロ―東アフリカ・サファリ・ラリー優勝記録」。
66年「グラン・プリ」を連想させる。
邦画らしからぬ迫力のレースシーンは裕次郎の意気込みがストレートに伝わる。
また、当時の高度成長期の自動車産業の空気感が懐かしく感じられた。
文字どおり猛烈なスピードで欧米のクルマを追いかける時代だった。
あの頃は、日産も元気だった。
制作当時TVに押され日本映画界が低迷していく中で、何とか洋画に負けないような作品を作りたいという意気込みが伝わってくる。
石原裕次郎の制作ということだが、海外の俳優を多く使っているだけでなく、日本側も「黒部の太陽」のパートナーである三船敏郎や仲代達矢、それに浅丘ルリ子といった顔ぶれも豪華。
アフリカのサファリラリーがテーマということもあるが、大半が海外ロケというところにも裕次郎の力の入れようが察せられる。
昔の映画俳優はまだまだ気骨と負けん気が強かったということが強く印象づけられた。
マックイーン「栄光のルマン」、ニューマン「レーサー」に引けを取らないレース映画。レースシーンだけでは映画が成り立たないので人間関係を織り込むことになるが、それがレース目的の観客にうざいと見られるかにかかっている。長時間の作品だが、当時の日本としては画期的な海外ロケで飽きさせない。裕次郎の意気込みが感じられる。
恋人役の浅丘ルリ子のさまざまな顔が見られる。
裕次郎扮するカーレーサー・五代に同行して、甲斐甲斐しく手助けをするシーン。
五代が大けがをして、必死に介護するシーン。
レースに没頭する五代についていくか、別れて普通の小さな幸せを求めるかの選択を迫られて悩むシーン。
そして、最後は、サファリー・ラリーで優勝した栄光の五代を見つめるシーンだ。
その横顔の美しさは輝いていた。
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