勝新太郎の映画 日本の映画俳優で、最も自由人だった男! 黒澤明との大喧嘩、コカイン事件の真相は? | 人生・嵐も晴れもあり!

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日本の映画界を代表する俳優の一人である、「勝新太郎」をレビューしていこうと思います。

 

勝 新太郎

(1931年(昭和6年)11月29日 - 1997年(平成9年)6月21日)

 

 

 

 

職業: 日本の俳優・歌手・脚本家・映画監督・映画プロデューサー・三味線師範。

本名: 奥村 利夫(おくむら としお)。

身長170cm。血液型O型。

 

勝新太郎は、市川雷蔵とともに大映(現・角川映画)の「二枚看板」として活躍しました。

 

また、後に「勝プロダクション」を設立し、劇場用映画やテレビ作品などの製作にも携わりました。

 

勝新(かつしん)の愛称で呼ばれ、豪放磊落なイメージと愛嬌のある人柄で、不祥事を起こしながらも多くのファンから愛されました。

 

2014年に映画関係者や文化人を対象にしたキネマ旬報のアンケートでは、好きな日本映画男優の第4位に選ばれています。

 

映画界で、最も時間にルーズで、酒、たばこ、ばくち、女、クルマ、麻薬といった世の俗物への執着が最も強く、どんな大物にも臆することなく我を通したそのふてぶてしさは天下一でした。

 

そんな勝新が残した「座頭市シリーズ」、「兵隊やくざシリーズ」、「悪名シリーズ」などの多くの作品には、日本人の強さ、激しさ、潔さ、可愛いさ、美しさが描かれています。

 

 

勝新太郎は、「遊び心」を追求しつくした日本一の自由人だったといえるでしょう。

 

思い切り、楽しいこと、気持ちの良いことをやりつくした、自分の人生を謳歌した自由人でした。

 

 

まず、その出自と経歴をたどりながら、おもなエピソードをピックアップします。

 

1931年(昭和6年)11月29日、長唄三味線方の杵屋勝東治と妻・八重子の次男として生まれる。

生家は東京市深川区(現在の東京都江東区)。

若山富三郎は二歳上の兄。旧制法政中学校(現在の法政大学中学高等学校)中退。

十代のころは長唄と三味線の師匠として、深川の芸者に稽古をつける。

1954年のアメリカ巡業中に、撮影所で紹介されたジェームズ・ディーンに感化されて映画俳優になることを決意する。

 

23歳の時に大映京都撮影所と契約、1954年の『花の白虎隊』でデビュー。

大映社長の永田雅一は勝を可愛がり、白塗りの二枚目として市川雷蔵に次ぐ役者として熱心に主要な役を与え続けたが、思うように人気が出なかった。

同年代の雷蔵・山本富士子・若尾文子が早々とスターとして活躍していくのとは対照的に、映画館の館主達からは「いい加減に勝を主役にした映画を作るのはやめてくれ」との苦情が絶えず寄せられるほど不人気ぶりだったという。

だが、1960年の『不知火検校』で野心的な悪僧を演じたことにより、それまでの評価を一新することとなる。

1961年、二代目中村鴈治郎の長女で同じ大映に在籍していた女優の中村玉緒と婚約。

玉緒とは『不知火検校』や、一匹狼のやくざ・朝吉役で主演した『悪名』などで共演している。

 

 

この映画が初のヒットとなりシリーズ化。

1962年3月5日、永田の媒酌で珠緒と結婚。

 

 

 

続く『座頭市物語』、『兵隊やくざ』で不動の人気を獲得。

 

 

 

1963年に長谷川一夫・山本富士子が大映を退社する中、勝は一躍大映の大黒柱の一人となる。

これ以降、1969年7月17日に雷蔵が死去するまで、大映の2枚看板として「カツライス」と称され、その屋台骨を支えた。

特に一連の座頭市シリーズはアジア各地でも上映され、勝の代表作となっている。

 

1967年に勝プロダクションを設立し、自ら映画製作に乗り出す。

この時期、大手五社によるブロックブッキング体制・五社協定崩壊の中、三船敏郎の三船プロ、石原裕次郎の石原プロ、中村錦之助(萬屋錦之介)の中村プロなど映画スターによる独立制作プロダクションの設立が続いた。

 

勝プロは、若者向けの暴力・エロ・グロ路線の作品とは一線を画し、三隅研次・安田公義・森一生・増村保造ら大映出身の監督たちと時代劇の伝統を絶やさぬよう映画制作を続けた。

さらに、勅使河原宏・五社英雄・斎藤耕一・黒木和雄ら、当時台頭しつつあった若手監督たちとも手を組み、『燃えつきた地図』、『人斬り』などを製作・主演した。

 

 

 

また、一方では『男一匹ガキ大将』、実兄・若山富三郎主演の『子連れ狼』、自身が主演した『御用牙』などの、マンガ・劇画の映画化やテレビドラマ製作にも進出した。

 

特に1971年、製作・監督・脚本・主演をこなした映画『顔役』は、撮影の殆どを手持ちカメラで行い、極端なクローズアップを多用し状況説明的な描写を廃したカットつなぎなど、典型的な刑事ドラマでありながらも、それまでと異なる先進的な手法を使った作品と評された。

またデビューしてわずか2年の俳優だった松平健を自らの弟子とし、勝自身が製作・主演したテレビドラマ『座頭市物語』に出演させて徹底的に鍛え上げ、1978年に『暴れん坊将軍』(テレビ朝日系)に主演させて時代劇スターに育て上げた。

1980年には勝プロダクションは松平主演のテレビドラマ『走れ!熱血刑事』を製作している。

 

1974年から1979年にかけて、座頭市をテレビドラマとして合計4シーズン、全100話を製作(その多くで脚本、演出も担当)するなど、活動は軌道に乗っているように見えた。

 

 

 

だが、この頃からプライベートでのトラブルが多くなり、1978年にはアヘンの不法所持で書類送検される。

 

1979年には映画『影武者』の主役に抜擢されるが、監督の黒澤明と衝突し降板。

 

 

この影武者事件こそ、勝新太郎の人となりを知るのに格好の事案だ。

日本映画史の残るほどの主役交代事件である。

黒澤はリア王を原作とした『乱』を映画化したかったが、費用が掛かり過ぎると言われ、代案として考えたのが娯楽的時代劇『影武者』だった。

 

武田信玄亡き後、その死を隠し影武者を立てて藩を守る話。

影武者だから似ていなければならない。

そこで、勝新太郎と若山富三郎の兄弟に演じさせたら面白いんじゃないかという黒澤の提案で、

それまで10億の予算でも渋っていた東宝も11億に増額し、ようやく『影武者』は動きだしたのである。

ところが早くも兄の若山富三郎が、健康を理由に出演を辞退。

「勝新の奴は朝は起きない、午前中は使い物にならん。あんなのと一緒じゃたまらん」と言っていたという。

それが本当の理由かどうかわからないが、とにかく兄貴は早々に戦線離脱ということになった。

 

一方弟の勝新太郎は大乗りではしゃぎまくりだった。

「俺なんだか楽しくてしょうがないんだ、ウフ、フ、フ」と笑って地団駄を踏んで見せたりしたという。

勝新のこの作品に賭ける気持ちは相当なものだったのだろう。

だからキャスティングにも口出ししたり、推薦する女優の写真を黒澤に送ったりした。

 

また大量の勝自身の写真を黒澤に送り、この写真を使ってくれとか、こんな表情も参考にしてほしいといった注文まで添えてきた。

黒澤は「そんなのこっちが決めるこっちゃないか」と言って困っていたらしい。

勝新の熱心さがだんだん迷惑になって来ていたのだろう。

 

京都のロケハン(ロケ現場の下見)の時、勝は黒澤の大好きなステーキを御馳走すると言って、黒澤とキャメラの宮川一夫、スクリプターの野上照代を接待したという。

お店はかなり上等な接待場所、女将も「まあ先生、おこしやす」としゃがれ声で貫録十分。

勝はご機嫌で「おれは楽しくてしようがないんだよ」と芸談をしては大笑い。

そして舞妓がやってきて接待する。

 

しかし黒澤は帰りの車の中で、

「イヤだよ俺、あんな気持ち悪いの。首まで真っ白じゃないか。
勝もどういうつもりかね。あそこの家だって借金があるんじゃないかい。

だって女将は勝の顔みてイヤな顔したもの。
そういうの俺すぐわかっちゃうんだよ。演出家だからね」

というふうに御馳走になっていながら散々な言いようだったという。

基本的に勝新と黒澤は肌が合わないということだったのかも。

 

撮影での勝と黒澤の初顔合わせは、山崎努が演じる信廉が影武者に「出かしたぞ」と言って、影武者が「出かすも出かさぬも、他に仕様がなかった」と言うシーン。

 リハーサルで勝は、この「出かすも出かさぬも、他に仕様がなかった」というセリフを、毎回も違う言い方をして見せた。

勝の気持ちは、俺は監督の操り人形じゃないぞと、俺は俺らしくやるぞ!という意思表明だったのかもしれない。

黒澤もはじめは「違うよ勝くん」と笑いながら訂正していたが、次第に怒気を帯び、「勝君、違うったら!」と言うようになった。

 

リハーサル2日目。

メイク室には勝以外だれも来ていなかった。

鏡の前に衣装をつけた勝が座っていて、カツラ担当の山田氏が、スクリプターの野上氏に言う。

「なあ、勝さんが現場でビデオを回したいっていうんだが、わしはそりゃ止めといたほうがいいって言うてたところなんだ。

監督がそんなのイヤや言うにきまっとるがな。あんた、ちょっと、行って監督に聞いてみい。そら止めといたほうがいいってワシは思うよ」

勝新 「いや。俺はね、いつだってやってんの。てめえの芝居が見えないからさ。それを見て研究するんだよ」

 

しかし山田は野上に監督の許可をもらってきてと繰り返す。

「いいよ。俺が聞いてくる。監督はもうセットに入ってるの?」

と、勝新はどうしてもビデオを回したいらしい。

直接交渉にいく勝新。

 

その交渉の一部始終を見ていた野上氏がこう語っている。

セットの奥で黒澤と勝新が話している。

ジェスチャでビデオの話をしているのが分かった。

監督は椅子にかけたまま体をねじって、たばこを吸いながら勝の顔をじーとみている。

 

この時のことを後から黒澤から聞くと、

「はじめ勝が何を言っているのかサッパリわからなかった。俺はただ勝のメイクがやけにきついのが気になって、そればがり見ていたんだ」

ようやく勝の要求を理解できたらしく、黒澤は顔が一気に険しくなって放つ。

「断る!そんなことされたんじゃ気が散ってしょうがない。あんたは自分の役に集中していればそれでいいんだ。余計なことはするんじゃない!」

黒澤のこのぐらいの怒り方は、我々スタッフには並もいいとこ、中の下、震度2程度。

 

しかし、慣れない役者さんはヒキツケを起こす。

勝はしばらく棒立ちだった。

「そんなことより早くちゃんと支度をしてきなさいよ!」

我に返った勝は憤然として、荒々しくセットを出ていった。

「何を考えてんだあいつは」と腹立たしそうに見送った黒澤さんは「行ってみてこいよ」とアゴをしゃくって私に言った。

 

共演した根津勘八はこう語る。

「突然、ドカドカって勝さんが衣裳部屋に戻ってきた。

むくれた様子で一言も言わずにどんどん衣装を脱ぎ捨てている。

僕は小便からと思った。そしたらいきなりカツラをむしりとって、脱いだ衣装の上にポンと放り投げて出て行った。

いくらなんでもトイレにしちゃカツラをとるのは変だし、やっぱりビデオのことで何かあったんだなと思いました。」

 

<勝新太郎VS黒澤明 最終決闘がこれ:

勝新が怒って帰った!という知らせに製作部は大混乱。

 「監督はカンカンだそうだ」

「いや、勝さんが怒って飛び出した!」

などと電話に飛びつく人、走る人。

勝の乗せたワゴンがいよいよ引き揚げると思われたが、ワゴン車は製作部前の噴水わきに停まった。

そこへ東宝の大物プロデューサー田中友幸が駆けつける。

そして、黒澤もワゴン車に向かう。

このときの彼の胸中には、ここが決断の時だ!ちょうどいい機会じゃないか。
と腹をくくっていたと思われる。

 

これまた、一部始終を見ていた野上氏が著書でこう語っている。

黒澤さんの姿が近づくとワゴンのドアが開き、長身の彼が身をかがめてステップを上がった。

私は黒澤さんを後から中を覗いた。

その時、向かい合っていた勝さんと田中氏がいっせいに黒澤を見た。

田中 「なんとか気を取り直してセットへ戻っていただけないかと、今お願いしているんですがね」

田中さんが両方への気を使って笑いながら言った。

 

勝さんも黒澤さんが来たからといって突然軟化するわけにもいかなかったのか

「俺はこういう役者だから、こんな気分では芝居はできない」

そのようなことを黒澤に言う。

それを受けて黒澤は信じられないほど冷静な声で言った。

「それなら、勝君には辞めてもらうしかないな」

と言い捨てるや、くるりと向き直りワゴンを去った。

 

彼が私の脇を通るとき、同時に勝さんがガバっと立ち上がり、飛び出しそうな眼で黒澤さんを睨みつけて、殴りかかろうとした。

「勝さん!それはいけない!」

と勝さんより小柄な田中氏は顔を真っ赤にして勝さんを羽交い絞めにして、制止した。

黒澤さんはその騒ぎを背中で感じながらも、振り向くこともなくセットへ戻っていった。

セットに戻ってみると黒澤さんを中心にしてスタッフは円座を組み、話をしていた。

 

以上が、黒澤明という世界に名だたる大監督と、勝新太郎という世界一の自由人・俳優との衝突事件の全容だ。

 

要するに、お互いに相手を立てる気持ちが全く無かったということなのだ。

普通の俳優は、世界のクロサワが言うことに逆らうことはあり得ないのだが、勝新という自由人は、そんな常識は持ち合わせていない。

座頭市という大きな時代劇の世界を自ら創設したという自負もあったろう。

この結果、なんとこの「影武者」の予告編が勝新主演で撮影されて上映されてしまうという事態を引き起こしたのだ。

最終的には、仲代達矢主演で正式な映画は公開されたが。

今でもYouTubeなどに勝新の影武者が観れる予告編の動画が残っているのだ。

 

 

1980年に製作したテレビドラマ『警視-K』(日本テレビ系)が完全主義の勝の製作方針などで予算がオーバーし、作品自体も不振で途中打ち切りになるなどした。

この影響を受けて勝プロダクションは膨大な赤字を抱えて経営が立ち行かなくなり、1981年に12億円の負債を残し倒産。

この時の記者会見で「勝新太郎は負けない」と述べ、借金と戦っていくことを宣言する。

翌年、中村玉緒を社長とした「勝プロモーション」を設立する。

だが、1982年に長女・真粧美と長男・雄大(後の鴈龍)が大麻密売で揃って逮捕され、1983年には義父・二代目中村鴈治郎が死去するなど不幸が相次いだ。

 

1978年5月10日、マネージャーと弟子で俳優の酒井修が、阿片(アヘン)所持で逮捕。

アヘン26グラム(当時の末端価格で260万円)と吸煙器を処分するよう勝プロダクション所属俳優に頼んだ疑いで書類送検される。

5月26日の釈明会見では「イランの貴族から贈られ、社長室に置いていたが、芸能人の大麻事件が相次いだので処分を依頼しただけ」と東京帝国ホテルの記者会見で語った。

1989年に長年の沈黙を破り、自らの製作・監督・脚本・主演により『座頭市』を完成させた。

ところが、長男・雄大が殺陣の撮影中、斬られ役の役者を誤って真剣で斬りつけ死亡させてしまうという事件が起こる。

結局これが勝製作の最後の映画となった。

勝の出演作品としては1990年、黒木和雄監督の『浪人街』が最後となり、以後、活躍の場を舞台に移し、演出・主演を務める。

 

 

さらに、お騒がせ名人の勝新太郎にとって最大の事件が発生した。

それが、「パンツにコカイン事件」だ。

 

 

1990年1月17日、羽田発の中華航空機でホノルル空港に降り立った勝(当時58歳)のパンツの中からコカイン1.75グラム、マリファナ9.75グラムが発見された。
ハワイ当局から下された処分は罰金1000ドルで即日釈放という寛大なものだったが、事件はその後、異例の展開を見せることになる。

日本に戻ると「麻薬取締法の密輸出罪」で警視庁に逮捕されることになると考えた勝は、帰国せずハワイに居座る作戦に出た。

 

罰金刑確定後の記者会見で

「不徳の致すところ」

と謝罪したが、

「なぜ、コカインを持っていたのか、オレが知りたいんだ。ハメられたとか、ハメられないとか、オレが知りたい。」

と、とぼけたコメントもする。

さらに入手ルートについては、

「機内で”勝さんのファンです”という男性から包みを渡された」

と日本からの持ち出しを否定した。
パンツの中から発見された理由についても、

「大麻かコカインと思ったのでとっさにパンツに入れた」

と言い訳をしたのだ。

1991年3月12日、ハワイの移民帰化局から強制退去命令が出される。
この時、会見で出たセリフが冒頭のパンツ発言。
それでも、勝さんは強制退去処分に異議申し立てをして帰国を先送りし、麻薬撲滅チャリティーにも出席し、

「愛するハワイで麻薬事件に巻き込まれてしまい、なんとお詫びしていいものか」

とあいさつし

「世界中の若者をドラッグから救いたい」

とも語ったのだ。

この自由人ぶりこそ、勝新の真骨頂だ。

 

 

 

 

1996年7月に下咽頭癌を発病。手術はせず、抗癌剤と放射線の治療を行なった。

入院中も外出を繰り返して寿司や酒を楽しみ、平然と煙草をふかした。

約4か月後の記者会見でも「煙草はやめた」と言いながら堂々と喫煙する様を見せた。

しかし実際には療養中は禁煙し、会見での喫煙はパフォーマンスだったというが真相はわからない。

 

晩年は、トライデントシュガーレスガムのCMにも出演し、死の前年である1996年4月23日には『笑っていいとも!』(フジテレビ系)の「テレフォンショッキング」にも出演した。

 

最後の舞台は大阪新歌舞伎座で中村玉緒と夫婦役を演じた『夫婦善哉』。

 

1997年6月21日午前5時54分、入院先の千葉県柏市の国立がんセンター東病院において下咽頭癌で死去。

65歳没。

 

かつて、後白河法皇が好んだという「遊びをせんとや生れけむ」という今様の歌のように、遊びつくしてあの世に旅立った勝新太郎の生き方は、がんじがらめの規則に縛られて令和の時代を生きる我々にとって、非常に参考になるところが多いのではないかと思われます。

 

「座頭市」は、勝新自身だったのかも知れません!

 

今後、勝新太郎の作品をレビューして行きます。