今村昌平監督の作品一覧 人間の本性をとことん描き切った個性派監督の輝かしい実績と経歴をレビュー! | 人生・嵐も晴れもあり!

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人間の色と欲を追求し、生の人間と自然との調和を映像化した日本有数の映画監督の輝かしい実績を追います!

 

 

今村昌平監督の作品は以下の通りです:

全部で20作品です。

  • 盗まれた欲情(1958年)日活
  • 西銀座駅前(1958年)日活
  • 果しなき欲望(1958年)日活
  • にあんちゃん(1959年)日活 ベルリン映画祭コンペティション
  • 豚と軍艦(1961年)日活 
  • にっぽん昆虫記(1963年)日活  ベルリン映画祭主演女優賞
  • 赤い殺意(1964年)日活
  • エロ事師たちより 人類学入門(1966年)日活・今村プロ
  • 人間蒸発(1967年)日活・ATG・日本映画新社・今村プロ( ドキュメンタリー)
  • 神々の深き欲望(1968年)日活・今村プロ
  • にっぽん戦後史 マダムおんぼろの生活(1970年)日本映画新社・東宝
  • 復讐するは我にあり(1979年)松竹・今村プロ
  • ええじゃないか(1981年)松竹・今村プロ  カンヌ映画祭招待作品
  • 楢山節考(1983年)東映・今村プロ 原作:深沢七郎 カンヌ映画祭パルムドール
  • 女衒 ZEGEN(1987年)東映・今村プロ  カンヌ映画祭コンペティション
  • 黒い雨(1989年)東映・今村プロ・林原グループ 原作:井伏鱒二 カンヌ映画祭高等技術委員会グランプリ
  • うなぎ(1997年)松竹・ケイエスエス・衛星劇場・グループコーポレーション 原作:吉村昭『闇にひらめく』カンヌ映画祭パルムドール
  • カンゾー先生(1998年)東映・今村プロ・東北新社・角川書店 原作:坂口安吾 カンヌ映画祭招待作品
  • 赤い橋の下のぬるい水(2001年)日活・「赤い橋の下のぬるい水」製作委員会  カンヌ映画祭コンペティション
  • 11'09''01/セプテンバー11 日本編(2002年)

カンヌ映画祭ではグランプリに相当する「パルムドール」を2度も受賞しているのです。

 

 

国内も含めた主な受賞歴を見てみましょう。

  • 1963年 - ブルーリボン賞監督賞・脚本賞『にっぽん昆虫記』('63年映画配収 6位、3億3000万円)
  • 1979年 - ブルーリボン賞監督賞・日本アカデミー賞監督賞・キネマ旬報賞監督賞『復讐するは我にあり』
  • 1983年 - カンヌ国際映画祭パルムドール・『楢山節考』
  • 1989年 - 日本アカデミー賞監督賞・キネマ旬報賞監督賞・日刊スポーツ映画大賞監督賞『黒い雨』
  • 1997年 - カンヌ国際映画祭パルムドール・『うなぎ』
  • 1997年 - 日本アカデミー賞監督賞・毎日映画コンクール監督賞『うなぎ』。第15回川喜多賞を受賞
  • 死に際して旭日小綬章、フランス共和国より芸術文化勲章が贈られた。

 

 

 

今村昌平の経歴をたどります。

 

1926年〈大正15年〉9月15日、東京府東京市の大塚で耳鼻咽喉科の開業医の三男一女の三男として生まれる。

1944年(昭和19年)に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。

徴兵を避けるため桐生高等工業学校(現・群馬大学工学部)に入学するも、終戦後直ちに退学し、早稲田大学第一文学部西洋史学科に入学。(医者の父に内緒で文学部に入ったことがあとで露見し、こっぴどく叱られるも授業料は払ってもらえた。)

早稲田大学では演劇部に所属し演劇活動を行っていたが、『醉いどれ天使』に感動し、演劇に見切りをつけ監督の黒澤明に付こうと思い決めた。しかし、黒澤のいた東宝はその時助監督募集をしていなかったため断念。

1951年(昭和26年)早稲田大学第一文学部を卒業し、松竹大船撮影所に入社。

欠員の出た松竹が初の助監督公募を行い2000人中8人という難関を突破しての合格だった。

主に小津安二郎の助監督をつとめたが収入や仕事で不満を感じ転職を決意。

1954年(昭和29年)に日活に移籍する。

1957年(昭和32年)の川島雄三監督『幕末太陽傳』や浦山桐郎監督の『キューポラのある街』の脚本も書く。

1958年に『盗まれた欲情』で監督デビュー。

同作では川島雄三との繋がりで黛敏郎が音楽を担当し、以後黛は『神々の深き欲望』まで、今村作品の音楽を担当した。

1958年の『果しなき欲望』の頃からスタッフが固定化、今村組が形成されていった。

1959年の『にあんちゃん』は今村の名を一般に知らしめた出世作で文部大臣賞も受賞した。

1961年の『豚と軍艦』は、高い評価を得るが、予算オーバーと興行成績不振のためしばらく日活から干されることになる。

1963年の『にっぽん昆虫記』では山形県で俳優とスタッフによる合宿でのオールロケと同時録音に挑戦し、大胆な性描写が話題を呼び配給収入は3億5千万円と大ヒットした。

『にっぽん昆虫記』の大ヒット後は、会社から却下されてお蔵入りしていた『赤い殺意』の企画を甦らせて1964年に公開。同作は今村が自分のベストと認めている作品である。この『赤い殺意』などで監督として世間に認められる。

1966年3月に自らが代表を務める独立プロの今村プロダクションを設立し、以後、ここを拠点に映画製作を行う。

1968年に、2年がかりの沖縄ロケをした初のカラー作品『神々の深き欲望』を発表し、各種映画賞を総なめにした。

 

 

1975年(昭和50年)、横浜放送映画専門学院(現:日本映画大学)を開校し、校長・理事長を務め、以下の多くの人材を輩出:

映画監督:三池崇史・細野辰興・金秀吉・佐々部清・本広克行・李相日・佐藤闘介

脚本家:鄭義信

作家:阿部和重(芥川賞受賞)

俳優:長谷川初範、隆大介

タレント:ウッチャンナンチャン、出川哲朗

1979年に9年ぶりの劇映画となる『復讐するは我にあり』を公開。同作品の成功により低迷期を脱し、映画監督として復活をとげる。

 

 

1981年に松竹との共同製作『ええじゃないか』を公開。

1983年に東映との共同製作で『楢山節考』を発表。同作はカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。

日本作品の受賞は1954年の衣笠貞之助監督による『地獄門』、1980年の黒澤明監督の『影武者』に続く史上三度目。

受賞効果もあり、1億7千万円で制作した同作は12億円を稼ぐ大ヒットとなった。

東映とは1987年に『女衒 ZEGEN』を共同製作、1989年に東映配給で『黒い雨』を公開して東映とは3本で組んだ。

1997年に『うなぎ』を発表。同作で二度目のカンヌ国際映画祭のパルムドールを受賞。

1998年に『カンゾー先生』、2001年に『赤い橋の下のぬるい水』を発表。

2006年(平成18年)5月30日午後3時49分、転移性肝腫瘍のため東京都渋谷区の病院で79歳で死去。

 

稀代の名監督・今村昌平氏のご冥福をお祈りします!