沖縄旅行記 ~2017年6月の週末旅~ | 私の回想録 

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レミニセンス - 回想録。
過去の記憶を呼び返しながら、
備忘録として残したい。
記事が長いが何とぞご容赦ください。

首里城焼失

 

2019年(令和元年)10月31日、首里城正殿、北殿、南殿が全焼し、跡形もなく焼け落ちた。
14世紀末といわれる築城から5度目の焼失となった。その前の焼失は1945年の太平洋戦争の沖縄戦。アメリカ海軍の艦砲射撃により破壊された。


首里城は2000年に世界遺産に指定されたが、正殿などの復元された建物は含まれず、グスクと呼ばれる城址とその関連遺産群が登録された。

正殿など焼失した建造物は、2026年の完成予定で再建が進められている。

以下は、2017年の訪問時に撮った写真である。正殿は外装工事をしていた。

 

 

 

 

 

*2017年のオリジナル記事に戻る*

 

ANAのマイルが6万近くになっている。会社からは有休取得奨励。

 

そうだ、沖縄へ行こう!

 

  羽田空港搭乗ゲート近くで家族と集合。空弁と飲み物を買って、スマホで搭乗券代わりのQRコードをスキャンして、保安ゲートを通過。開封していない飲み物(液体、酒類も)を持ち込めるとは!電子機器の機内持ち込みを禁止しようとしたまでの厳重なチェックを行うアメリカとはかなりの違いである。オリンピックに向けてこの緩さがちょっと心配になる。

 定刻がきて、機内搭乗。ここでもQRコードが必要になる。日本の国内線不慣れにつき、もたつく。機体は大型のボーイング777。満席である。

 2時間半のフライトをへて、那覇空港に到着 22:30 。初めての沖縄である。梅雨明けしたばかりですごく蒸し暑い。関東地方も梅雨が明けるとすぐにこのような暑さになるのであろう。

 今日の宿は那覇市内の辻町通。怪しい店が随所にあり、興味をそそるが、今日はシャワーをあびて寝るだけとする。

 

 朝8時、ホテル近くのオリックスレンタカーへ行き、予約してある車を借りようとしたが、手続き中の先客が5組以上いて、待たされる。順番が来て車のピックアップとなる。ホンダのフィットハイブリッド、メーター700kmのほとんど新車である。さらに、まる2日間の料金は、車両保険まで付いてわずか7,000円ちょっと。なぜ沖縄はこんなに安いのだろう。幸先良し!

 

 ホテルで家族を乗せて、いざ沖縄本島のドライブにでかける。前日6月23日は“慰霊の日”。各地で戦没者追悼式が行われた。我々家族も最初に沖縄平和祈念公園に向かう。祈念公園は式典会場の大きなテントの撤去作業が行われていて、人影もそれほど多くない。沖縄平和祈念堂へ一礼し、記念碑に黙礼する。

 この周辺は沖縄戦跡国定公園に指定され、沖縄戦最大の激戦地であり、終焉地であった。首里(那覇市)にあった日本軍司令部は、この沖縄南端部に撤退し、狭い島尻には、南下侵攻するアメリカ軍、避難してきた一般住民、撤退抗戦する日本軍の軍人が入り乱れ、阿鼻叫喚。おびただしい戦死者を出した。

 

 そのためこの糸満市周辺には数多くの慰霊碑、慰霊塔がある。次に向かったのは有名なひめゆりの塔。136人の戦士した従軍看護婦が合祀される慰霊塔である。ひめゆり隊は2つの学校の職員、生徒による合同組織で、沖縄県立第一高等女学校の乙姫隊と、沖縄師範学校女子部で編成された白百合隊をあわせて、ひめゆり部隊となった。ひめゆりの塔も前日に慰霊祭が行われており、また観光地化していることもあり多くの献花がされていた。

 次に白梅の塔を探す。どうしたことか車のナビでは目的地としての設定ができない。グーグルマップの経路案内でたどり着いた。白梅学徒隊は、沖縄県立第二高等女学校の補助看護婦46名で、昭和20年6月、そのうち22名が戦死した。山崎豊子の小説「運命の人」に、その悲しい最期が取り上げられた。また2012年、天皇皇后両陛下が沖縄を訪問し、白梅学徒隊の生存者らと懇談した際、皇后陛下が「白梅の塔はどちらの方向ですか」とお声をかけ、天皇、皇后両陛下はその方向に深く拝礼された。この白梅の塔も、前日に慰霊祭が行われたようで、立派な献花がされていた。しかし観光地化はされていないようで、我々がいた間には訪問者はなかった。丘間のひっそりした慰霊塔であり、むしろ歴史の哀れに心を打たれる。

 

 那覇の南東端部、南城市のニライカナイ橋の景観がいいということでそちらに車を向ける。確かに海の景色の美しいS字の高架陸橋であった。

 

 沖縄へ来たからには、米軍基地も見ておかねばならない。普天間飛行場を高台から見下ろせる嘉数高台(かかずたかだい)公園(宜野湾市)へ向かう。ニライカナイ橋からは40分くらいだが、ナビは正確に私を誘導する。展望台から見る普天間飛行場は、それほど広いとは感じない。この程度の飛行場であれば、わざわざ海を埋め立てなくても、既存の嘉手納(かでな)基地あるいは隣接する基地内の山林を開拓、拡張すれば、充当できるのではないかと感じる。普天間飛行場は4.8 km2 に対し、嘉手納飛行場は19.95 km2 である。しかし米空軍と海兵隊が同じ飛行場を共有することはできないということである。すでに喧々諤々と検討されたこととは思うが、辺野古に決める前に、何とかならなかったものかと疑問に感じる。

 


 さてランチの時間となった。嘉数高台の駐車場の並びに沖縄そば屋があって、沖縄中部エリアで人気第一位を獲得した店と宣伝されている。「3丁目の島そば屋」という店で、客もよく入っているので、ここに決めた。私はアーサそば、奥さんは島そば、娘は沖縄そばを注文した。ここを選んで大正解であった。島そばは、3枚肉(ラフテー)と、炙ったあばら肉(ソーキ)が入り、沖縄そばは3枚肉2枚、アーサは恩納村のアオサ海苔とかまぼこ、3枚肉が入っていた。3人で具をシェアして食したが、しっかりした腰の麺と、だしの効いた汁。よく煮込まれ、味付けされた県産の豚肉と、宣伝どおりの満足する味であった。さらに炊き込みご飯のジューシーまで付いていた。沖縄そばには期待していたので、この店を見つけた運に感謝する。通して気づいたことであるが、沖縄には普通のラーメン店、日本蕎麦屋が少なく、沖縄そば屋ばかりであることから、沖縄そばは香川の讃岐うどんと同様に島人のソウルフードと思われる。

  

次にうるま市にある海中道路に向かう。ここは勝連半島から平安座島を結ぶ5.2kmの道路で、本島と島を堤防道路と橋で結ばれている。さらに道は宮城島、伊計島へと繋がっている。ざっとこれらの島もドライブして、海中道路に戻りその中間にある海の駅で休憩を取る。その時は極端な引き潮であったが、その景色もなかなか美しかった。

  さてそろそろ今晩の宿である読谷村の、むら咲むらへ向かうこととする。途中、前述のアメリカ空軍、嘉手納飛行場の脇を通る。羽田空港の2倍、東京ドームの420個分もあるというのであるからやはり広い。この飛行場が占める土地のうち、9/10は私有地で、年間239億円を超える賃借料が地主に払われているという。またこの施設の消費による地元への経済効果は、雇用もふくめ、非常に大きな規模であり、また周辺自治体への国からの補助金もある。一方、騒音、墜落などの危険といった基地独特の問題による基地の撤去要求がされているが、それは極めて困難な状況と言える。

 

 

 むら咲むらホテルにチェックイン。ここは体験王国むら咲むらという施設が隣接されていて、そこには数々の体験工房、食事処などが入った15世紀頃の琉球王国の街並みが再現されている。NHKの大河ドラマ「琉球の風」のロケセットの跡に作られたテーマパークである。奥さんは早速、琉球織物の制作に出かけて行った。出来上がったものは小さいが、縦糸横糸が上手に織られたきれいな模様のコースターであった。銭湯も隣接されていて、宿泊客は無料で利用できる。そこでさっぱりした後で、隣接された食事処でバイキング式の夕食を取る。ゴーヤチャンプラー、チビチ(豚足)、ラフテー、タコライス、オリオンビール、泡盛など沖縄ならではものをいただく。

 

 沖縄3日目、マリン体験ツアーに参加するので、朝7時から隣接する武家屋敷レストランで朝食バイキングを取る。このレストランは15世紀の琉球デザインであるので、非常に雰囲気がいい。今日は、ジンベイザメシュノーケリングツアーに参加する。世界的にも海中生け簀で飼育されているジンベイザメをダイビングで見られるのは、ここ読谷村港のみである。マリンショップまで送迎してもらい、ウェットスーツに着替える。ダイビング組と一緒にボートにのり、10分ほど沖合の網を張った海中生け簀に到着。ボートは錨をおろし、その縄にサーフボードが固定される。シュノーケリング組は海にザブンと入り、そのボードに摑まって水中マスクで海の中を観察する。私はボードにつかまる場所がないので、その周りをシュノーケリングで泳ぐ。結構な沖合で潮の流れもあるので、しっかり泳いでないと船から離れてしまうが、問題はない。目前には網があってその中に7mと6mのジンベイザメが2匹いるらしい。ショップのダイバーが餌を撒いて我々の方に誘導してくる。

来た、来た、大きい!さすがに魚類最大である。波があるので視界は3-4m程度しかないが、それでも結構迫力がある。ジンベイザメの周りには、餌のおこぼれに集まった他の魚がたむろしている。ジンベイザメはプランクトンしか食べない穏やかなサメで、人が襲われる危険はない。大きな口を持つが、喉は非常に小さく、プランクトン以外は飲み込むこともできない。シュノーケリングは30分ほどで終了、港へ帰る。10分以上はじっくりジンベイザメを観察できたと思う。我々の世話をしてくれたマリンショップの若いインストラクターは、二十歳の青年で、しかも聞けば、我が住まいの横浜金沢文庫から沖縄に働きに来たという、ちょっとした奇遇な出会いであった。

 

 さてまだ10時台なので、ホテルを離れ、もっと北へ向かう。名護市の古宇利大橋をめざす。ここからは1時間ちょっと、沖縄自動車道の最北インターの田(きょだ)まで、うるま市、恩納(おんな)村、金武(きむ)町宜野座(ぎのざ)村を経由して行く。さらに名護市(なご)を通り、我地(やがじ)島から全長2kmの古宇利大橋を渡り、古宇利島へ渡る。

これといった観光スポットもなさそうであったので、橋から正面に見えたオーシャンタワーへ行ってみたが、料金を取る展望台だったので引き返す。登ってきた時に小奇麗なレストランがあると気づいていたので、ここでランチを取ることにする。

L Lota(エルロタ)という店名の、古宇利大橋の眺望がすばらしいグラッシーなレストランで、高級な感じがする。オーナーらしきマダムも美人で、1つだけ空いていたテーブルに案内される。厨房には4名も料理人たちが配置されていて、薦められたのがブイヤベースランチ2500円。これを2つとサラダをシェアすることにする。高いなと思ったが、十分以上に値段に見合う料理であった。昨日に続き大当たりである。ブイヤベース鍋には、手のひらくらいの鯛、大きな海老、たくさんのあさりとムール貝、細ネギ、オクラが上品なブイヤベースで煮込まれている。粉チーズをかけてこれらの具をまずいただく。残ったスープはリゾットにしてくれる。バケットも添えられ、たいへん美味であった。洒落た器でコーヒーor 紅茶が提供され、心地よく窓外の美しい景色をゆっくり楽しめた。

 

 

 本島北部はこれ以上の情報がないので、一気に那覇市に南下して首里城をめざすことにする。沖縄自動車道の最北から南まで走ることになる。途中、伊芸サービスエリアで休憩、水分の補給を行う。沖縄自動車道の全長距離は60kmほど、40分のドライブである。日本では沖縄本島は、本州など4本島を除けば一番面積の大きな島ではあるが、北方領土の国後島より小さい。

 

  首里城は14世紀末に琉球王朝の王城として建設され、戦前には正殿が旧国宝にも指定されていたが、1945年の沖縄戦と、戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、城壁や建物の基礎の一部が残っただけであった。

 

1980年前半に、琉球大学が移転されることになり、本格的な復元工事が1982年から1992年の間に実施された。完成した首里城は1993年のNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台となった。このような歴史の中で、現在の建物、特に正殿などの赤い部分は近年の建造物と言うことができる。首里城を訪れる観光客の大半以上は中国、韓国、台湾からの旅行者と思われる。本物の歴史的建造物でなくてちょっと気の毒な感じがする。 

*そして冒頭の首里城焼失*

 

  今晩のディナーはステーキと決めていた。島人は22時、23時を過ぎても〆にステーキを食するようなステーキ好きと聞いていた。今宵滞在する旭橋駅近くのDouble Tree HILTON にチェックインして、早めにレンタカーを返却した。ホテルに戻る途中に今晩のディナースポットとして目星をつけていた、老舗ジャッキーズ・ステーキハウスをのぞいてみる。夕方6時という早い時間にもかかわらず、すでに外は人であふれてる。聞いたが予約はできないとのこと、ホテルに帰り家族の意思を確認して、再び一人ジャッキーズ・ステーキハウスに行き、45分待ちを承知して、待機リストに書き込み、一旦ホテルのロビーに戻る。示し合わせて45分後に再び家族そろって待機に入る。程なく順番が来て、店内入場。アメリカ占領時代からの店、という雰囲気満点である。客は全く日本人のみ、観光客だけではない、地元の人達と思われる家族客も多い。

 

 

我々の注文したのはテンダーロインステーキとニューヨークステーキ。サラダ、クリームポテトスープ、ライスが付き、それぞれ好みの焼き具合で注文する。もう車の運転はないので、私はビール、ワインを追加注文。長く待つことなく、熱々で配膳されたステーキは案外普通で、特に味付けがされておらず、テーブル脇に並んだステーキソース、醤油、ケチャップ、塩、胡椒で好みの味に仕上げる。このビーフは国産でなく、米国産でもない、脂身の少ないオーストラリア牛肉と思われる。

 

 

 まだ時間も早いので、旭橋からゆいレールに乗って、奇跡の1マイルと呼ばれる国際通りへ行ってみようということになった。ゆいレールは、那覇空港から首里を結ぶ2両編成の、ゆりかもめのようなモノレールで、沖縄唯一の鉄道である。国際通りへは、牧志駅で降りる。旭橋から3駅目で料金は230円。切符にICチップかバーコードが組み込まれているようで、切符をSuicaのように改札機にタッチする。聞いてみたが、本土で使われているICカードは使えない。

さて国際通りには何があるかといえば、駄菓子屋のような土産物店、とにかく土産物店、そしてその間に飲食店という感じである。シーサーを土産にと思ったが、金額が高いのでびっくりした。にやけたシーサーが1万円前後、大きいものでは2-3万もする。道すがら出会った怖い顔の本物と思われるデザインのシーサーはない。

 

 

 沖縄4日目、短い沖縄旅行の最終日となる。那覇空港発は12時55分。これまで、これといった土産は買わなかったので、空港で物色することにする。あらかじめ家用に買うことを決めていたのが、海ブドウ、あぐー豚のラーメン、島らっきょう味噌。奥さんは沖縄の染物、紅型(びんがた)のストールといったところか。会社への土産は悩ましい。40ピース買わねばならないのだが、定番のちんすこうは粉っぽくて美味くないし、紅イモタルトは色が不自然で、重く値段が高い。ぐるぐる回っていたら、JAL側の売店に「島果のしずく紅芋フィナンシェ」という一口サイズで、きれいな包装のお菓子があった。眺めていたら店員のおばちゃんが来て、サンプルをくれるという。他の店におかれた試食品は、ちんすこうばかりだったので、これはありがたくいただく。うむ、中々美味しい。数も揃えられるし、これに決定する。空弁を買っていざ搭乗。

 

さらば沖縄。また来る。次は離島にも。

 

  沖縄は全般的に、建物外観の古さから感じる、言葉が適当でないと思われるが、何か貧しさがある。アメリカの影響を受け、台風に強いコンクリート造りの2-3階建て住居が特徴的であるが、どこも外壁が汚い。ベランダが広く、屋上も使えるこの鉄筋コンクリートの家は、都会の我々から見れば羨ましい構造で、白く再塗装すれば見違えるように立派になると思う。一方、木造住宅は台風に耐えるため、平屋造りで、赤瓦。そして石垣の擁壁と歴史を感じさせる。産業はといえば、観光に依存した第三次産業が中心である。農業生産、工業生産の規模は極めて小さい。そして基地から得られる収入と補助金が重要な収入源となっている。

 

  観光に関して、首里城や国際通りを歩いてすぐに気づくが、外国人旅行者が非常に多い。データを確認してみたが、平成27年度の国別観光旅行者の数は、1位台湾 505,400、2位中国本土 354,800、3位韓国 332,800、4位香港 201,900、 全体で、1,670,300。日本国内からの旅行者も合わせて旅行者全体の21%にもなる。台湾、中国からは空路だけではなく、クルーズ船を利用した旅行者が多い。平成28年度も飛行機、船舶の旅客輸送能力を増やしたということで、旅行者数は更に増えている。単純な観光でなく、ダイビングツアーにも大勢の中国系の人が参加していた。マリンショップも、中国語に対応できるスタッフを入れていた。レンタカーも同様に外国人旅行者が利用していた。沖縄の宿泊施設はまだまだ許容量があるので、今後も彼らを受け入れて、いいサービスを提供してリピーターを得るよう努力してほしい。

 

  沖縄は良いところだと感じる。なにより南国であることか。同じ南国シンガポールに住んでいた時と同じような気候だが、シンガポールに台風はない。しかし海は沖縄がはるかに美しい。シンガポールは大都会で、大産業都市だが、那覇は田舎の小都市以下だ。面積は沖縄本島が倍以上ある。よって比べるべきではないことはわかっているが、沖縄にはもっと頑張ってほしい。もっと美味しい名物料理、名店食事処を増やし、一方で産業を発展させて、もっと豊かな県になってほしい。その潜在能力はあるはずである。

 

島田紳助はもう沖縄(宮古島)にはいないようだ。

                                      了