どうも自分は自身の外見の老いを認めたがらない。 | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

昨日、仕事があったので朝7時頃、家を出た。

 

バス停に向かっていると「年寄り夫婦」が散歩している。

 

年寄り夫婦?

 

でもよく考えると二人とも自分と同い年か、自分より若い。

 

なのになぜ「年寄り夫婦」と思ったのか?

 

変な話だが、あるいは自分だけかもしれないが、自身の年齢を実際より「若く」思い込んでいる節がある。

 

自分で自分を思い浮かべると「若く」想像している。

 

実際は73歳の立派な?爺なのに、もう少し若い時の自分を思い浮かべている。

 

すれ違った夫婦から見れば、自分(私)のことを年寄りのくせに朝早くからどこかへ出かけるのだな、と思っているに違いない。

 

そう思っている彼らもまた、自分がみている現実の彼らより、彼ら自身は「若い」彼らを頭に浮かべていそうだ。

 

どうも人は、実際の年齢より若い時の自身を頭に浮かべる帰来がある気がする。

 

それともそれは自分だけだろうか?

 

いまなにかをしている自身を想像してみよう。

 

それは実年齢より「若く」はないか?

 

もし自分だけの妄想でないとしたら理由はなぜだろう?

 

自分はどうも73歳の自分より、10歳ぐらい、下手すりゃ20歳ぐらい「若い」自分をイメージしている。

 

73歳のくせに53歳ぐらいをイメージしている。

 

仮に鏡をみてもそれは修正されない気がする。

 

皺も染みもたるみも案外、気にせず、見落としている。

 

つまり正確に自身の老いをみず、認めようとしない。

 

体の老いは自覚せざるを得ない。

 

けれど「外見」の老いを認めようとしない自分がいる。

 

自分だけだろうか?

 

もし外見の老いを認めたがらないとすると、死はある意味、さぞかし無念な気がする。

 

まだ「若い」(と思い込んでいる)のに死にことを。