日韓、映画の違い | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

プライムビデオにはまっているが、その映画のラインナップを観ると、日本映画のそれはほとんど観たい気が起こらない。

 

そして実際に選択して観ても、期待をおおきく外す。

 

それに対して韓国映画はラインナップからアトランダムに選択してもだいたい面白い作品に出合う。

 

正直、日韓の映画の実力差は歴然としている。

 

なんでだろう?とそれについて書いたものがないかと探してみるとあった。

 

それは監督の姿勢、映画へのかかわり方が違うからだと、実際に韓国映画に関わる日本の制作会社関係者が語っている。

 

曰く、韓国の監督は自ら脚本を手掛けることが多く、一から制作に携わるが、日本の場合は、監督より先に映画会社が企画を決め、脚本家を雇い、監督は決まった企画・脚本から制作に取り掛かるらしい。

 

先に企画ありきだから監督は「どんな映画をつくるか」ではなく「どう作るか」しか関わらないことになる。

 

とすると「みせ方」にのみ注力され、監督自らがどんな映画を見せたいのかがわかりにくい。

 

もちろん監督も脚本を理解して制作に取り掛かりはするが、本当に彼が制作したかったものかどうかが怪しく、ただ仕事だから制作したのかが曖昧だ。

 

その監督の気合いの入りなさが駄作を生むと断言してもおかしくないと思える。

 

最近「ゴジラー1.0」「峠」「告白」「日本の一番長い日」などを観たがどれも中途半端でなにを表現したいのかがわからない。

 

特に「ゴジラー1.0」は脚本のセリフが洗練されていなく、観ているこっちが恥ずかしくなるぐらい凡庸すぎた。

 

それはたぶん日本の映画は分業制で、企画・脚本・監督がバラバラで脚本家は「全体」をみないで脚本を書いたきらいがある。

 

ただ言葉の羅列で終わっていて、映画をよくしらない脚本家ではないかと思えた。

 

監督は他人が書いた脚本、セリフだけではなく、物語の展開も先に企画ありきでは、監督の「意志」が鮮明ではなく、悪く言えば「作らされている」だけに思える。

 

監督だけではなく、役者もほかの制作スタッフもみんなが「つまらない」映画だなと思っても仕事だからと作らされていることになる。

 

分業制はいわば責任回避で出来がダメでも特に誰の責任とも言えない。

 

責任をとらない、とらなくていいとなれば気合いははいらないし、制作熱は生まれない。

 

そんな無責任な状況の中で日本映画は作られていると言える。

 

ゴジラは過去に何本も制作され、何年かに一度、リメイクするだけだ。

 

それで一定数の客はとれるのだろう。

 

採算もあうのかもしれない。

 

しかし超駄作であり、よくもこんな映画をつくったなと思える。

 

映画会社は儲ければそれでいいので出来いかんは問わない。

 

それが日本映画をダメにしている。

 

韓国映画には作り手の「熱」があり、脚本も見せ方も凝りに凝っている。

 

それが監督一人に託されいるからだとすると当然の結果だと思える。

 

責任というか、映画人としてのセンスが注目され、監督はいわば命がけで制作する。

 

のるかそるか。

 

外せば自身の映画人としての生命は消える。

 

言い換えれば日本の監督にはその覚悟がない。

 

作り手だけではなく観る客の目も肥えない。

 

韓国映画にはまる人はそれがわかっているが、韓国映画を観ない、観る機会がない人はそれが理解できない。

 

もし韓国映画にはまると日本映画は観る気も起らないと言っても過言ではない。

 

日本映画がもうどうしようもないところに来ている。

 

安直な宣伝に騙されて日本映画を観ない、無視することが日本映画再起につながるとも思える。