共生? | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

何度かブログに書いているように、隣接するマンションに暮らす外国人の「騒音」に悩まされている。

 

深夜にマンションの通路や階段の踊り場で大声で携帯電話をしたり、大声で会話したりとうるさい。

 

寝付かれず、寝ていても声で起こされることもある。

 

マンションの管理会社に、なんとかしてくれと頼み、通路、階段での携帯電話と会話の禁止をアナウンスしてもらっているが一向に効き目がない。

 

聞く耳を持たない。

 

数日前に散髪屋に行くとまったく偶然に散髪屋さんが、最近、この辺り(ご近所)に暮らす外国人が増え、騒音に悩まされている人が多いと彼の方から話しかけてきた。

 

外国人というのは東南アジアか、南アジアの人間である。

 

観光客ではなく、京都で働いているか、大学に通っている。

 

大きな交差点の歩道上に植わっている桜の木の下で酒を飲んで騒いでいた外国人たちがいて警察沙汰にもなったと聞かされた。

 

やりたい放題。

 

「共生」という言葉がある。

 

「共に生きる」だが、意味は「違う者」同士が仲良くやりましょうということで、差別や偏見をなくすようにいうニュアンスで使われる。

 

深夜に騒音を起こす外国人とも「共生」しなければならないはずだが、彼らは自分たちだけに「閉じて」いて、共生もくそもない。

 

彼らが騒音を起こすのは、彼らの方に「共生」する意思がないからだと、自分は決めつけている。

 

彼らは近所にある商店街で買い物もする。

 

つまり地域の「恩恵」を受けている。

 

彼ら「だけ」で暮らせるはずもない。

 

日本に、京都に暮らす限りは地域と溶け込むしかない。

 

だったら地域の中で「浮いてはいけない」はずだ。

 

ルールというか当たり前のことを守り、マンションの管理会社から注意をうければ素直に従うべきだ。

 

そうすれば自然、自分たちも彼らに「優しい」目を向けられる。

 

散髪屋さんの話は彼らが孤立し、地域と溶けこもうとしないから問題を起こしているというふうにとれる。

 

孤立しているから周りが見えない。

 

外国人の騒音に悩まされるまでは、共生という言葉にもろ手を挙げて賛成していた。

 

しかし今はその言葉に眉唾だ。

 

言葉というのは不思議で自身に直接関係のない言葉には客観的に対応できるが、いざ自身に災難がふりかかるとその言葉に疑念を抱く。

 

差別、偏見はもちろんいけない。

 

けれど深夜に大声をあげることが迷惑だという当たり前のことが理解できない彼らに対する偏見は払拭できない。

 

優しくなどできない。

 

「共生」が美しい言葉に思えなくなってきた。