見栄えハラスメント | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

Yahooの芸能ニュースなどで「時間が止まった」とか「30年前とまったく変わらない」「いまも美しい」「高校生で通じる」などの文字が舞う。

 

40代、50代、60代に差し掛かった、もはや売れない元人気女優・男優、タレントを褒めそやす。

 

で、写真を見ると年相応に老け、昔の面影などまったくない。

 

嘘つけ。

 

なんでそんな「よいしょ」記事を載せるのか?

 

もう売れなくなった彼女ら、彼らが所属するプロダクションが捲土重来を期して、芸能記者に金を払って記事をかかせているのだろうか?

 

それにしても書く方も褒められる方もみっともない。

 

「若い」とか「綺麗」「格好いい」などが嘘というのもあるが、なんでいつまでも若くて綺麗で恰好よくある必要があるのかがわからない。

 

褒められたご本人たちは「まだいける」と悦に入っているのか?

 

だとするとみっともないを通り越して裸の王様、みじめだ。

 

老いるのは当然、自然で、老いて昔ほど見栄えが悪くなってなにが悪いのだろう。

 

老いるのは大げさに言えば人類の必然で人類が存在する限りなくならない。

 

皺が出てきて、肌の艶もなくなり、シミもでき、目がくぼみ、顔の形も変わる。

 

腹が出て、昔のすっきりした体型には戻らず、腰さえ曲がっていたりする、男も女も。

 

果たして「老い」は醜いのか?とも思える。

 

むしろ「いつまでも若い」「昔のまま」と見栄えをことさら強調するのは見栄えハラスメントではないか。

 

老いるのはいけないと差別している。

 

年寄りが老けた顔や体型、表情になることは堂々と認めないといけない。

 

いや女優やタレントではない「一般人」は堂々としている。

 

若作りなどしない。

 

する意味がない。

 

老いて、どこが悪い!と開き直っている。

 

「まだまだお若い」は誉め言葉ではない。

 

むしろ老いに対する蔑視、偏見だ。

 

皺だらけ、シミだらけ、腰が曲がり、杖をつかないと歩けない。

 

そのどこがいけない。

 

少子高齢化で年寄りがはびこっている。

 

そんな時代に「いつまでもお若い」という言葉は逆行している。

 

老いが「醜い」とすれば爺婆はもっともっと醜くなって、みんなこうなるのが当然と主張してもいいぐらいだ。

 

爺婆が集まって「醜くてなにが悪い!」と繁華街をデモをしたいぐらいだ。

 

いつまでも若いというのは醜態をさらすに等しい。