爺婆・老人・高齢者という言葉は要らない | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

昨日、市バスで座っていたら、年配の女性が横に立ってきた。

 

正確な年齢がわからないが60代か70代。

 

あまり元気そうに見えないので「どうぞ」と席を譲ると「ありがとうございます」と答えて座った。

 

でもよく考えると自分(73歳)の方が年上かもしれない。

 

年上が年下に席を譲るというのは変な具合だ。

 

さて、自分は茶化して「爺」「婆」という言い方をするが、爺婆というのは「幾つ」を指すのだろうか?と思う。

 

京都の観光ガイドをしているが、ガイドの多くは60代後半、70代前半である。

 

けれどみんな仕事上、元気なので「爺婆」という呼び方は適当ではない。

 

60代でも爺婆と呼びたくなる人もいるが、やはり爺婆は70代以上だろうか?

 

それも正確さを欠くというか、そもそも爺婆とはなにか?と思う。

 

「爺」あるいは「老人」の意味をひくと「年取った人」と書かれていて、同時反復である。

 

ちなみに国の定めでは65歳以上を「老人」というらしい。

 

「サザエさん」の波平さんは見た目、老人ぽいが「サザエさん」が連載された時代に現役で働いているのは50代まで。

 

いまは65歳まで働くが波平の時代は55歳が定年だったはずだ。

 

いまの50代はもっと若々しい。

 

自分が子供の時、母親の父親(祖父)と同居していたが、母親が長女であることを考えると祖父は50代後半から60代前半だった。

 

しかし爺臭く、外出もせず、ただ背中を丸め、テレビで大相撲を観ている姿しか印象がない。

 

それから半世紀たち、爺婆の年齢規定も変わったはずだが、爺婆という言葉ももう違うと思える。

 

自分は自分を爺とは思っていない。

 

他人は爺と思っているだろうが、そんなに老けたという思いがない。

 

体力が落ちたことは言うまでもない。

 

死も近づいた。

 

けれど爺という言葉がしっくりこない。

 

爺婆という言葉には年寄り「臭さ」がつきまとう。

 

どこかだらしなく、情けなく、みっともないような。

 

少し差別的である。

 

いまはあまり使わないが、差別語にはなっていないはずだ。

 

いや「老人」とか「高齢者」という言葉にも違和感がある。

 

歳をとっているからと「人」を区別する必要があるのかと思う。

 

歳をとるのは致し方ない。

 

しかし年齢で「一括り」する必要があるとは思えない。

 

「高齢者」という言葉は政治・行政が生み出した便宜上の言葉だ。

 

爺婆・老人・高齢者という言葉は要らない気がするし、「一括り」する必要もない。

 

むしろそれらの言葉から「人」を解き放つべきで、そういう時代になっていると思う。