ぽっぽないないする公務員 | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

公務員の「公」ってなんだろう?とつくづく思う。

 

国とか自治体のことだろうが、それってなんだろう。

 

そんなものは果たして必要なのか、とさえ考えてしまう。

 

みんなから金=税金をまきあげ、「公」のためと称して金を使う。

 

でも「みんな」ってなんだろう。

 

なぜ自分たち一人一人が「みんな」にされ、公=国・自治体に金を払わねばならないのか。

 

それを当然とされていることが解せない。

 

去年、マッコウクジラが大阪湾に迷い込んで死に、その死骸を処理するためにどこか遠方の海に捨てに行ったらしいがその処理費がおよそ8000万円で、初めの試算の倍かかったらしい。

 

それをいまさらながら検証したら、大阪市の職員と処理業者との結託の可能性があり、収賄の疑いがあるらしい。

 

「身を切る改革」と称し、公費の削減をモットーとする「維新の会」の市長のお膝元での話だ。

 

要は公務員というのは、「公」の金は、誰の金かもわからないので杜撰に扱ってもいい、ちょろまかす人間ということだ。

 

民間企業でもある話だが、民間企業はその会社だけのことなので「みんな」が損をするわけではない。

 

しかし公務員の、収賄にもなりうるムダ遣いは「みんな」が損をする。

 

みんなの税金からぽっぽないないされる。

 

当たり前だが個人の金は無駄遣いしない。

 

すれば自分の首を絞める。

 

無駄遣いは「公」でも「私」でも同じだが、「公」の無駄遣いは、遣った人間の首を絞めない。

 

むしろ無駄遣いをしてその無駄遣いの中から自身の懐にもぽっぽないないし、金を掠める。

 

公務員にいくら「公」の金だからと言い聞かせてもこの手のぽっぽないないはなくならない。

 

ある意味、税金は公務員、あるいは議員とかにうまくぽっぽないないされていると言っても過言ではない。

 

公の名のもとに正しく金が使われていることはありえない。

 

「公」とはなにか?

 

公は「社会」ではない。

 

国、自治体は無理やり囲い込まれた領地のようなもので、自分たちはそこの領民にされている。

 

領地で領民だから、そこに平等、公平の精神があるはずはない。

 

お上に従わされるだけだ。

 

公務員はお上である。

 

公などまやかしだ。

 

公務員は公などわすれ、わすれたことに麻痺している。

 

「公僕」=公衆につくすこと、はありえない。

 

みんなの税金で食わせてもらっているという意識など微塵もない。

 

店で物を買うと店員は「ありがとうございました」と頭をさげる。

 

それがない。

 

それが公務員にない限り、税金の無駄遣いはありえない。

 

だったら「公」など要らない。

 

国や自治体にみんなが金を払う必要はない。

 

高飛車な店員がいる店で買い物はしない。

 

「ありがとう」と言わない店員のいる店でわざわざ買い物をしない。

 

公務員に「ありがとう」と言えと言っているのではない。

 

そういう精神がないということだ。

 

みなさんの大切な金=税金を預かっています、大事に遣いますということがない。

 

ないなら要らない。