「社会」はよくなりようがない | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

昨日は一日、バスで移動し、いろんなところに行った。

 

バス風景は爺には毒だ。

 

腹立たしいことが多い、何度もブログで書いているように。

 

最初のバス。

 

結構混んでいる。

 

足が悪く、手押し車のようなものでやっと立ってられそうなお婆さんが私の前に乗り込んだ。

 

彼女は優先座席の前にずっと立たたされているが、優先座席に平然と座っている中学生ぐらいの女子。

 

見えているはずなのに替わろうともしない。

 

こういうときに「親の顔が見たい」と思う。

 

「学校でどいういうことを教えているのか?」とも爺は思う。

 

そもそもそんなことは教えねばならないことなのか?

 

せめて家庭や学校で、「年寄りが、それも体の悪い年寄りが乗ってきたら席を譲れ」と教えろと思う。

 

国語や数学より大事で、社会という科目もあるだろうし、社会という科目で「席を譲れ」を教えないと社会が成り立たないと思える。

 

次に乗ったバスでは肥満体の若い男がバスの乗車口でずっと立っていて、通行の邪魔になっている。

 

バスが混雑しているのならわかるが、座る席があるのに座らず、邪魔をし、邪魔をすることを悪いとも思っていない様子。

 

差別と偏見で言うと、なぜだかデブほどバスの乗車口を塞ぐ確率が多い。

 

頼むからデブは座ってほしい。

 

社会というものを学べ。

 

優先座席と乗降口塞ぎにはいつもいらいらする。

 

バスではないが、祇園の花見小路を歩いていたら、外国人観光客が車道にもあふれている。

 

車道で記念撮影するバカ外国人。

 

しかしそれをいじわるにクラクションを鳴らす車もおかしい。

 

そもそも花見小路を車が通るな。

 

芸者・舞妓・お茶屋を観たくて観光客があふれているのかわかっているだろうし、なにより花見小路を通らねばならないタクシーや飲食店(の車)は観光客でもっているはずだ。

 

クラクションは儲けさせてくれる客に失礼だろう。

 

家に帰る前にスーパーに寄った。

 

レジで清算し、買った品物を袋に入れようとしたら、ガキが二人、うるさくはしゃぎまわっている。

 

母親は注意しない。

 

客にぶつかるし、通路を塞がれ、年寄りは出口に向かうことすらできない。

 

こうして親が迷惑な子供を放置しているから、ガキは学ばない。

 

他人の邪魔してはいけないと教えない。

 

一番大事なことで、一番に人が身につけないことなのに。

 

だから優先座席を譲らない。

 

バスの乗降口を塞ぐ。

 

大人になってもクラクションを平気で鳴らす。

 

こんなのだから社会は一向に良くはならない。

 

なりようがない。