「ローヤの休日」 | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

「不適切にもほどがある!」第7話。

 

昭和から令和にタイムスリップしてきた主人公(阿部サダヲ)の娘(河合優実)が、令和でデートを楽しみ、「なにが良かった」と聞かれ、「牢屋」と答える。

 

ドラマを観ていない人しかわからないが、デートの最後で無銭飲食に間違えられ、警察の留置所を入れられるがそこでデートをした男とキスをしたからだ。

 

留置所を昔言葉で「牢屋」というのは「ローヤ」であり、つまり「ローマ」にかけているのだろう。

 

そう「ローマの休日」にひっかけ、7話は「ローヤの休日」なのだ。

 

「ローマの休日」はある国の王女が身分を隠して新聞記者とローマでデートを楽しむ話。

 

主人公の娘、純子も過去(昭和)から来たことを「隠して」デートを楽しむ。

 

デートの相手とは交際は続けられないし、現実であって、現実でないと割り切って「一時」を楽しむというのは、切ない。

 

よく、余命いくばくもない相手との恋愛ドラマ、映画がある。

 

自分は苦手で観たことがない。

 

タイムスリップして特攻隊員と恋愛をするという映画もあるらしい。

 

あまりにも安直な発想だと思える。

 

7話では、主人公が令和で勤めるテレビ局が放送予定のドラマの脚本家がそういう発想の内容のドラマの脚本を書いていて頓挫している。

 

かつて名声を博した脚本家はそんな単純な中身では納得がいかない。

 

その展開と、純子の「ローヤの休日」が並行して、7話は面白い。

 

純子も主人公もただタイムスリップしてきたのではない。

 

彼らは1995年に死ぬのだ。

 

彼らがやってきた令和に彼らは存在していない。

 

そこの矛盾が切なく、おかしい。

 

昭和からやってきた祖父(阿部サダヲ)、母(河合優実)、令和にいる父(古田新太)、娘(仲里依紗)の4人が年齢的に逆転し、令和では昭和からやってきた17歳の母が年下で、娘が年上になり、娘が母であることを知っていて可愛がり、面倒をみ、複雑な心境になる。

 

1995年で死ぬことを知っている娘は母に存分に「一時」を楽しんでほしいと願う。

 

洋服を買い、ヘアを整えさせ、そしてデート。

 

安易に「余命」ドラマ、映画を書く脚本家はこの巧妙な展開を見習うべきだと思う。

 

物語の巧妙さがもの哀しさを生む。

 

すでにロスが出始めた。

 

「不適切にもほどがある!」、終わってほしくない。