くにたち蟄居日記 -273ページ目

「マルメロの陽光」映画 ビクトルエリセ

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 エリセの最新作である。といっても 公開されて既に4年程度経つか?

 エリセは極めて寡作なスペインの映画監督である。10年に一度程度しか公開されない。但したまに出てくる 彼の作品である「みつばちのささやき」や「エルスール」は 毎回大変な話題になるし 事実傑作揃いだ。そんな彼の現時点での最新作である。

 「みつばちのささやき」と「エルスール」には 映画の筋があったが 本作の筋を説明することは難しい。スペインの高名な画家が庭のマルメロ(という果物である)を絵に描く姿を追い続けるドキュメンタリーである。それだけと言えば それだけだ。途中で画家は油絵をやめて 鉛筆でデッサンに変えてしまう。せっかく書いていた油絵をあきらめて 白黒の鉛筆でのデッサンに変えてしまうのだ。見ていてあっけに取られてしまう。驚いているうちに デッサンですら終わったのかどうかよく分からないうちに映画自体が終わってしまう。
  筋を書くと こうなってしまう。身も蓋も無い。

 但し 映像の美しさは例えようが無い。マルメロに無口で向かう画家がエリセ自身に重なっていく。「何かを求めることの 静謐なる狂気」などという陳腐な言葉が頭に浮かぶ。いや そのような言葉に還元してはいけない。
 そんな 不思議な内省に駆られる 極めて不思議な映画。
  

「柳川掘割物語」 映画 高畑勲

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 ジブリアニメファンにも観て貰いたい 実写ドキュメンタリーの傑作。

 話は九州の柳川市である。かつては掘割が市内の至る所にあり 日本有数の「水の都」であった。北原白秋が柳川出身であったことは有名だ。彼の詩集「思ひ出」を読んでみれば 以下に白秋が自分の郷里をいかに愛していたかがよくわかる。
 そんな掘割が高度成長期には汚染され ゴミだらけとなり 一旦は埋め立ててしまおうという結論になった。そんな時に 一人の市役所の係長が立ち上がったというのがこのドキュメンタリーの筋である。

 3時間にもなんなんとする 長い映画である。柳川の掘割の水のように映画はゆったりと流れる。寄り道のようなエピソードを挟みながらも 映画は 柳川に起こった「奇跡の復活」に収斂していく。

 ジブリの作品は かみそりのような切れ味に富んだ作品が多い。そんな中で 本作は一見鈍いが 鉈のような迫力でぐいぐいと話を押していく。実話である「力」も多い。「もう一つのナウシカである」というのが 宣伝のコピーであったが 見ていると「我々も頑張ればナウシカになれる」という気になってくる。

 いささか長いし 冗長な作品かもしれないが 感動的で 志の高い映画であると考える次第。

喫茶店 「ロージナ茶房」

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 ロージナ茶房は国立で最も老舗の喫茶店の一つである。そろそろ50歳くらいのはずだ。出来た当初は周りは桑畑と学校しかなかったらしい。今の小奇麗な街並みからは想像がつかない話である。


 ロージナの魅力は長時間ステイすることが許されている「滞在型喫茶店」であるというのが僕の定義である。実際 ここに行くときは 大体 PCで仕事をする時か 読書をする為であることが多い。自宅でやっても良い内容であるが 逆に ロージナの雰囲気が妙に仕事やら読書に向いていて 案外落ち着いてやれるものだ。


 面白いものにて 周りに知らない人が結構居て がやがやしていると物事に集中出来るというのも 一面人間の真理かもしれない。例えば通勤電車などは究極の例だと思う。どう考えても 集中出来る環境とは言いがたい一方 多くの人が通勤電車内で創造的な仕事が出来たと言っている。森敦が芥川賞を取った「月山」を書いたのも通勤電車であったという歴史は 戦後の通勤地獄の中にあっては 心温まるエピソードだ。かくいう僕も行きの通勤電車では 大概仕事のアイデアを練っている。今振り返っても 良いアイデアで 通勤電車生まれであるものも結構有った。

 ロージナは しかし 通勤電車ではない。店内は大変ゆったりしている。休日の午後はどうしても眠くなる。特に外が寒い冬は。ちょっとだけだが 眠ってしまったこともある。これも蟄居の醍醐味か。


 

「孫子」

 高校時代に中国の古典にかぶれて時期があった。本書は名高い中国の古典である。すぐ読んだ。

 高校時代は理想と幻想と妄想に満ちた時代である。青臭い当時の僕にとって 本書は読んでいて いささか腹が立つ本だったと記憶している。理想に燃える熱血少年だった自分が今では懐かしい。

 それから20年以上が経った。社会に出たり 結婚したりして色々「スレた」後の最近に本書を読み返してみた。

 全く腹が立たない。

 実社会を経験した後に本書を読むと はたと膝を叩くばかりである。勿論 僕は戦争が職業ではないし 戦争体験があるわけもない。それでも読んでいて感心してしまうのが本書である。陳腐ながら 我々の日々のささやかな生活も一種の戦争のような側面もあるのかもしれない。ビジネス書で孫子が取り上げられる事は 実に多い。これも企業競争を戦争に見立てて 2000年以上前の戦略家の言葉を珍重しているということである。
 
 それにしても 本書に腹が立つ時代もあった。年を取るということは 何かを失うことでもある。

「乳房 花なり」 写真集 アラーキー・宮田美乃里

 乳癌で2005年に亡くなった宮田美乃里という歌人の 生前 かつ自らの死を前提とした写真集。乳房摘出手術後のヌード写真集というものは 僕は寡聞にして他には知らない。

 宮田は清楚な美人である。素人美人のヌード写真などは巷にいくらでもある。但し そのモデルが自分の死を前提としているという気迫が 本写真集を誠に異様な写真集にしている。もともとフラメンコダンサーであったという宮田が いかに自分の「美しさ」に固執していたかという情念が 一種の妖気を帯びて立ち上がってくる。

 写したアラーキーは紹介するまでもない。彼の写真集は モデルというより撮影者の「彼自身」が 写真集に色濃く出てくる作品が多い。モデルは アラーキーにとって被写体でしかない場合が多い。 
 そんな中で 宮田は荒木に対峙し 荒木を圧倒している稀有のモデルである。そう 主人公は完全に彼女なのだ。そうして それが潔い。

 それにしても 宮田は既に鬼籍に入ってしまった。その喪失感を 本作のページを捲る人に感じさせるとしたら 「乳房を失った写真集」という自己表現を選んだ宮田が勝利したと言えるのかもしれない。但し その勝利の味は苦い。この写真集には そんな苦味がくっきりと刻印されている。

国立の喫茶店 S

 国立は喫茶店の街であることはわりと知られている。

 喫茶店に入る理由というのも考えてみると色々ある。時間潰しに お茶を飲むために入ることもある。人との待ち合わせ場所にも使う。本を読む場所に使う事もある。改まって何かを人に話すために入ることもある。喫茶店でプロポーズをしたり されたりすることもあるかもしれない。
 このように考えてみると「お茶を出す」というシンプルな機能を持った場所が 実に色々に利用されていることに心地よい驚きも感じる。

 さて 僕も例に漏れず喫茶店に行くことは好きである。それも一人で出かけることが特に気に入っている。家の近くにSという喫茶店がある。これも30年位前からある 国立では老舗と言っても良い喫茶店だ。この喫茶店には僕は何しにいくかというと マスターと雑談しに行くのである。

 この喫茶店は音楽がしっかり決まっている。昼間はクラシック、それもバロック、グレゴリオ聖歌、ルネサンス時代の音楽に限定されている。夜はジャズ。僕は休日の午後に出かけることが多いので 聴く音楽はクラシックとなる。個人的にもバロックが好きなので ここで教えてもらったアルバムを買うこともあった。武久源造という目の見えないチャンバリストを教えてもらったのも2年前の夏の日曜日の午後だったことは今でも覚えている。

 音楽を聴きながらマスターとする雑談は 文字通り 雑談である。たわいのない話と言って良い。利害関係の無い人とたわいのない話をする楽しさとは 例えば旅行中の列車の隣の知らない人と 雑談する楽しさに似ているような気がする。
 それと「たわいのない会話」自体が楽しいのかもしれない。我々は常時「何かしっかりした意図と趣旨を持った話」ばかりしているとしたら これは疲れてしまうに決まっている。「たわいのない話」の中では 時として自分で自分の話している内容に驚くこともある。自分でも意識していなかったような自分の気持ちや意見が ぽかりぽかりと浮かび上がってくる様を見ているのも 楽しいし ある意味で自分自身に関し勉強になるとも思う次第である。

 Sという喫茶店で頬づえをついているとそんな気がしてくる。蟄居も悪くない。  
 

「あの夏 一番静かな海」映画 北野武

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 北野武監督の青春映画であり 恋愛映画ということか。

 聾唖者の二人の愛というテーマである。主人公の二人が一言のセリフもないという設定自体とてつもない。但し 北野の映画は そもそもセリフが少ないので 北野映画としては案外違和感は無い。

 彼はサーフィンに熱中する。彼女は砂浜に座って そんな彼をにこやかに眺めているだけである。喧嘩する場面もあるが すぐ仲直りしてしまう。周りの人たちも そんな彼らに大変好意的だ。応援していると言って良い。そんな可憐な映画である。

 それでも この映画には「暴力」が色濃く漂っている。北野映画は暴力を追求する一面がある。暴力というのは 何も殴りあったり撃ち合ったりするだけではない。根源的な暴力が時として存在するという面が北野映画の通常低音として流れている。本作の最後の場面。主人公の彼はサーフィンのボードを担いで海に入っている。そして 二度と還らない。波打ち際に漂うボード。彼を探す彼女。
 いったい何で 主人公がここで死ななくてはならなかったのか。僕にして絶句してしまう展開である。それまでに 彼らが健気にやってきた姿を暖かく描かれてきただけに この結末は実にきつい。これこそ暴力ではないかと思う。

 北野の映画を見ていると 世界には暴力が満ち満ちていると思ってしまう。北野は それを肯定も否定もしてない。良いとも悪いとも言っていない。ただ無表情に「そういうものだ」とつぶやいているだけである。それも聞き取れないような小さな声で。

「イタリアからの手紙」 塩野七生

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 塩野七生の洒落たエッセー集。

 塩野といえば 大作「ローマ人の物語」で名高い。

 あれは ギボンのローマ帝国衰亡史への 日本からの挑戦であるというのが僕の理解である。そんな塩野が 大作の合間にちょこちょこと書いてくれるエッセーの味わいも相当なものである。小品ではある。しかし 小品にも小品の味わいがある。
 彼女の長編が「ケースでどんと買ってしまったフルボディーの赤葡萄酒」であるとしたら 小品はすっと出されたカクテル一杯という趣である。

 カクテルは微妙な色合いと味わいがポイントである。「イタリアからの手紙」というカクテルの味わいも複雑だ。バーテンの塩野に作り方を聞いても きっとあでやかに笑って教えてくれないに決まっている。カクテルのレシピは丸秘なのだ。それほど この24編のエッセーは 24種類のカクテルのように香しい。

 誰もが知っている通り カクテルは結構強いお酒である。過ぎると酩酊する。この本も読み終えると そんな酔い心地があるから不思議である。

「バベットの晩餐会」映画

 今から20年ほど前に 高校時代に好きだった女の子と見に行った。デートなわけだ。残念ながらその子と所帯を持つには至らなかったが 今でもごくたまにメールでやりとりすることがある。これが「手紙のやりとり」であると「怪しげ」だが E-MAILであると「清潔感」がある。IT技術に感謝している小さな事例の一つだ。
 
 ところでこの映画であるが 是非空腹でごらんになってほしい。途中から物狂おしくなり 最後の晩餐会にあっては 気も狂わんばかりになることは請け合いである。それほどに「食べる」ということを「セクシー」に描き出した 極めて静謐な作品である。
 「料理を芸術に高める」という言葉には手垢がついていて陳腐な感じもするが そんな「食傷気味」の方には是非見て欲しい。「一期一会」という東洋の言葉を痛感させられる欧州の傑作映画である。 

 高校時代に知り合う女の子も「一期一会」と言えるのかもしれない。人生も一度しかないわけだ。

国立の古本屋

 国立は学生街なので古本屋も多い。思いつくだけで6店ある。うち2店は洋書である。週末の国立蟄居生活において 古本屋巡りは大切な時間である。

 中でもT書店には毎週のように出かける。小さな店に入ると まず店主の横にある小さな丸椅子に座らせて貰い「仕入れノート」を見せて貰う。社会科学、哲学の本が多いことがT書店の特徴である。更に言うと 回転が実に早い。入ってきた本のうち 半分以上は一週間以内に売れてしまっている。かくいう僕も「志賀直哉全集」の入荷(つまり 誰かが売りにきた際)に その場で買ってしまった経験がある。
 更に驚くべきことはT書店は 時折 本を「貸してくれる」ことがある。「これ面白いから読んでみてよ」と店主に言われて 本を「お借り」し 一週間して「返却」するわけである。本屋とは本を売るところだと思っている僕としては 一瞬絶句した位である。

 店主が店主なら常連客も常連客である。毎週来ている常連客はごろごろいるし 毎日来る客までいるらしい。小さい店ながら 固い本がどんどん入ってきて どんどん売れていくわけで しょっちゅう行っていないと 面白い本は入手できない。ある時などは どう見ても10年以上の常連客が 文庫本を買う際に 「20円の値引き」を交渉していた。20円というのも半端な交渉だなと思って 良く見てみると その文庫本は「20円均一」のコーナーにあったものである。要は 「ただでくれ」という交渉なわけであり これには驚愕した。店主も楽しそうに応対している。これはもうゲームと言って良い。

 店主はもう40年近くこの店をやっている。店主ご自身も70歳を超えている。
「古本屋をやるなら お金は儲からないと思え」と先輩に言われて 神田で修行したのが18歳だったと言う。爾来 50年もの間 本に囲まれてきた方である。ゆっくりタバコをふかしながら 常連客と 本の話から初めて孫の話で終わる。本を売るというのも職人芸である。