日々、皆様と接してお話を聴いていると、「悲しいのに涙が出ないのです!」と訴えられる方がおります。
この言葉の続きはいつも同じで、「私って心が冷たいのでしょうか?」と寂し気な疑問となるのです。
愛する者を喪うと悲しくて涙が流れるものだと、誰しも思いますよね。
それなのに、時間だけが違和感と共に空虚に過ぎて行き、悲しいはずなのに涙が出ず、淡々とお見送りをしてしまうから、自分の感情の無さに戸惑いますよ。
周囲の人たちは泣いているのに、自分だけ泣けないのですよ。
いっぱい愛しているはずなのに、その子を喪って涙が出ないのですよ。
これって、おかしいのではないか?と思いますよね。
これはおかしなことではなく、心の制御機能が働いているのです。
心には受け止められる許容量というものがあり、それを超えたものを受止めてしまうと心が壊れてしまいますから、受け止められないような大きな場合は、心にロックが掛かって麻痺したような感覚となり、感覚が遮断されるのです。
そうなると、涙が流れないのですよ。
心がフリーズして固まっておりますからね。
これは可笑しなことではなく、文明の栄える前から備わっている人の心の機能なのですよ。
私も心がフリーズして涙が流れず、感覚が麻痺して、時間だけが過ぎることありましたよ。
祖父が亡くなった時も、猫が亡くなった時も、時間と物事がただ淡々と進んでゆき、思考の感覚から時間の感覚まで、おかしくなりましたからね。
爺ちゃん子の私は、いつも祖父の膝の上に座って、いつも祖父のお出掛けについて行き、分からないことは何でも祖父に聞いて、いつも祖父の喜ぶことをしておりました。
じいちゃんには何度も救われていて、外に出されている時も、押し入れに閉じ込められている時も、食事抜きの時も、いつもじいちゃんが助けてくれましたからね。
何かの行事のあるごとにそっとお小遣いくれたし、猫の手術費用でいくらバイトしても足りない時にも、そっと手を差し伸べてくれましたからね。
それに、ペット霊園の設立で資金不足から諦めようとしていた時にも、そっと遺産の先渡しと言って資金提供してくれましたからね。
「私は孫にお経を挙げてもらえるんだ!」と嬉しそうに人に話していた祖父が亡くなった時、一切の感覚が遮断され、淡々と連絡を取り合い、淡々と祖父の身体を拭き、自分ではない私が業者と打ち合わせをし、ぼーっとしたまま新潟に帰り、ただ時間だけが過ぎて行き、お通夜のお経が終わって、壇上より参列の皆様に挨拶しようとしたら、急に我に戻って涙が止まらなくなり、挨拶は号泣で終わりましたからね。
祖父への恩返しに、最後に出来る事をしてあげなきゃと思っていたから、お経が終わるまでとの意思もあって、心にフタをし、フリーズしておりましたからね。
きちんと、お経挙げ終わったら、もうボロボロでしたよ。。。
人は心に抱えきれないものをすべて受け止めてしまっては心が壊れてしまうから、受け止められる分だけ受止め、残りの抱えきれない分は抱えぬように麻痺して遮断するのですよ。
心が冷たいから涙が流れないのではなく、心が固まってフリーズ状態となり、感情が麻痺しているから冷たく感じるのですよ。
抱えきれない大きな悲しみなのですよ。
それだけ、大きな存在なのですよ。
雪融けの春の川は水量が多いように、心が溶けると涙が流れますよ。
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私の著書:
「ありがとう。また逢えるよね。ペットロス心の相談室」双葉社
「老いゆくペットと幸せに暮らすための40の心得」双葉社