私が選んだベスト3(短歌人2016年7月号) | アンダーカレント ~高良俊礼のブログ

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短歌、音楽、日々のあれこれについて。。。

勝ち組と負け組にわける流行あり「負」の言霊が人ふりまはす  山根洋子

 

「勝ち組、負け組」という言葉は、世相の歪みが生み出した言葉である。この言葉をあちこちで耳にするようになったのは確か2000年代の初め頃だったと記憶する。流行の移り変わりと共にこういった言葉はいつの間にか消えてゆくのが世の常のはずであるが未だに消えておらず何かにつけ使われている。社会の歪みはこれほどまでに深刻なのだ。その歪んだ社会には、ここぞとばかりに人を惑わせ、不安にさせる暗い言葉と、やさしいだけのどうしようもない言葉が溢れている。だが、そんな言葉にふり回されていたのではたまらない、その正体を見破って白日の下に晒してしまえというのがこの歌の明確な意思だ。社会の歪みから生じた言葉を歌で糺し、世に問うてゆくというのは、現代短歌のひとつの使命ではないか。余計な装飾のないストレートな詠みは、だからこそ歌そのものが持つ力強さを、メッセージとして読者の心に真っ直ぐに撃ち込む。「言葉」について、まずは深く考えさせられた一首。

 

「死とはもうモーツァルトを聞けぬこと」物理学者はかく語りにき  たかだ牛道

 

こう語った物理学者が誰であるか、ということよりも、物理学者にこういった機知とロマンに満ち溢れた言葉を語らせたこの歌の機知とロマンと言うべきだろう。結句に「語りにき」と余韻を含ませるところなど実に色っぽい。真似のできない大人の色気だ。さて、筆者は昔、友人と魂や死についてあれこれ議論を交わしてるうちに、何だかとりとめのない量子力学まがいの話になったことがある。とはいえ、専門知識などまるでない考察もどきである、切り出しておいて面倒臭くなった丁度その時の「まあいいや、チャック・ベリー聴こうぜ」の一言に救われた。この歌は、言ってみればその逆である。なるほどそうか、死というやつは大好きな音楽が聴けなくなってしまうことか。いや、前からそうじゃないかとは思っていたが、物理学者が言うのなら間違いない。今度友人に会う時は「死ぬということはチャック・ベリーが聴けなくなることらしいぜ」と教えてやろう。コイツいよいよか、と思われるのがオチだろうが。

 

 

わが叩く布団に籠もる妄執の散りてゆくなりきさらぎの空  松村 威

 

日常の中にうごめく「モノ」の陰影に、情感や情念を宿らせ、底の見えない独特な世界の拡がりを巧みに描く作者である。初句、布団を叩く(つまり家事をする)男性の、一見コミカルな姿が浮かぶのであるが、その叩いている布団には、たっぷりの妄執が籠もっている。人間は眠りに就く前に、その日の出来事を思い起こす。それは、その時にああだった、こうだったという、単なる記憶の再生に止まらず、やや願望がかった空想も混ざったものであったりする。眠りに落ちて、夢の世界で空想の続きが現れたりしたら、それは立派な妄執で、自己の内面に蓄積されるものになるだろう。夢の世界はあくまでも夢を見た当人の内側の世界だからだ。しかし、作者はその妄執は布団に籠もっいる、寝汗やうわ言と一緒に、物言わぬ布団がたっぷり吸っている示唆する。きさらぎの澄んだ空に散った妄執はそのまま消えてゆくのか、或いは薄まりながらもどこかへ着地して、見知らぬ誰かの妄執の糧になるのか、行方は分からない。視点を客観的なものに切り替えてもう一度初句から読む、そこには晴れた日に乾かした布団を黙々叩く男の姿がある。何でもない日常の光景に潜む狂気の気配が、空にゆっくりと充満し、色を変えてゆく。